紀元前735年頃のことです。イスラエルは、北イスラエルであるエフライムと南ユダに分かれていました。北のアッシリアが攻めて来た時、エフライムは隣接するアラムに頼り、南ユダはエジプトに頼っていました。アラムとエフライムは南ユダを同盟に加えてアッシリアに対抗しようとしますが、南ユダは拒みます。するとアラムとエフライムは、南ユダを征服しようとエルサレムに上って来たのです。第二歴代誌28章、第二列王記16章に書かれています。
アラムがエフライムと組んだと言う知らせに、南ユダの王アハズも、民も恐れました。南ユダは小さな国です。2国の連合に攻められたらひとたまりもありません。そこでアハズは、アッシリアに取り入って、アラムとエフライムに対抗しようと考えました。まずはエルサレムの守りを固める。水源を守る必要があります。アハズは水路の視察に出てきました。
神に示されたイザヤは、自分の幼子シェアル・ヤシュブを連れてアハブの所に向かいました。イザヤは言います。「アラムが強いと言っても、かしらはレツィン一人。エフライムが強いと言ってもそのかしらはレマルヤの子ペカ一人。ユダのかしらは主なる神なのだ。アラムとエフライムに南ユダを滅ぼさせはしない。主に頼って堅く立ちなさい。」
連れていた幼子のよう、神に素直になるようにと促したのです。
ところがアハズは、神のことばを受けても黙ったままです。そこで神は言います。
11節「あなたの神、主に、しるしを求めよ。」神は、アハブとユダの民の心の支えとなるしるしを求めるようにと言うのです。
アハズは答えました。「私は求めません。主を試みません。」と。一見信仰深く聞こえますが、既にアッシリアに頼ろうと決めていて、神のしるしは邪魔なのです。
そこで、イザヤは言います。「ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。」この問題は、アハズ個人の問題ではなくて、ダビデ王家の問題なのだとイザヤは、告げます。王家が滅びかねないのです。しかも王が神に逆らうことで、民は災難を受け、神の折角の配慮は無駄にされかねないと言うのです。イザヤが、しるしを求めるように促したとき、「あなたの神」と言っていましたが、ここではもう「あなたの神」とは言いません。イザヤは、わたしの神と言っています。すでに神が王家を見放したかのようです。
それでも神は、南ユダにしるしを与えました。
14~16節。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。・・・その子が悪を退けて善を選ぶことを知る前に、あなたが恐怖を抱いている二人の王の土地が見捨てられるからだ。」
若い女性から生まれる子供に分別が付く前。つまり、イザヤが手を引いているシェアル・ヤシュブ位に育つ前に。生まれた子が5歳くらいになる前に、アラムとエフライムが滅びるという預言です。
実際に、アラムはこの3年後、エフライムは13年後、アッシリアに滅ぼされます。
ただし、アラムとエフライムが攻めて来た時、南ユダから多数の男女が奴隷として奪われました。サマリヤのオデデという預言者がイスラエルの同胞から奴隷をとったことで主が怒られると言ったため、その奴隷は返されました。それが「残りの者は帰る」という名前「シェアル・ヤシュブ」が連れられて行った意味でした。
さらに、17節以下の預言が続きます。「アッシリアが、南ユダを占領し、耕作地を荒らし、人々は貧しいままに捨て置かれる」というのです。アッシリアが南ユダを助けてくれるはずだと思い込んでいるアハブは、聞く耳を持ちません。
しかし、アッシリアによる、南ユダの略奪と、国の破壊は現実のものとなるのです。
14節のインマヌエルの預言。これは2重預言になっています。アハズへの直接の預言と、苦しみと恐れに揺れ動く世界中の人々への将来的な預言です。この将来的な預言は約700年後のイエス様の誕生のことです。
今、地球環境も社会環境も揺れ動いています。林の木々が風に揺らぐ以上に私たちの心も揺れてしまいます。人は弱いのです。どうしたら良いのだろうか。このままで良いのだろうか。と私たちの心は常に揺れています。
インマヌエル、神が私たちとともにおられることは、気を確かに持たせ、落ち着かせ、恐れと戦わせてくれます。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」と
箴言16章9節にあります。
神がともにおられる。インマヌエルという言葉を、皆さんはどのようにイメージしていますか。
インマヌエルの神とは、救い主イエス様ですが、どのような姿をされているでしょうか。
どこに共におられるのでしょうか。あなたの頭上ですか、後ろですか、前ですか、隣ですか。
正解はありません。ただそのイメージの持ち方はキリスト者としての生き方に大きく影響すると思います。
私は、自分の背後でわたしを守って下さる、偉大なよみがえりのイエス様をイメージしていました。何をするにも私を導き、守ってくれる姿です。
ある牧師は違ったイメージを持っていました。イエス様はその方の心の中におられて、幼子のままの姿だそうです。イエス様は、その方に権威を振りかざすことなく、力で支配することもなく、その方の自由に任されているというのです。幼子のイエス様を両手で抱えて、いつくしみながら生き、慰められて生きていると言うのです。
「主が人の歩みを確かにされる。」とは、そういうことなのかもしれないと感じています。
改めて、皆さんのインマヌエルのイメージはどんなでしょうか。
(小室 真)
