30章では神と人との関係が、信頼と恵みの関係だと語られます。その前半、人が神に反逆する姿が書かれています。
1-5節:恥について
ユダの指導者たちはアッシリヤの武力から身を守ろうと、大国のエジプトに保護してもらおうとしていました。神の霊に従わず罪を増し加えているのです。3節、5節にあるように、この行動は恥を見ることになります。頭を下げてお願いしたのにエジプトが何の助けにもならなかったら、「何を考えていたのか。重要な役割を担いながら人を見る目がない。」と指導者達は批判を浴びることになります。それどころか国を失うことになります。
6-7節:苦難について
ネゲブ砂漠は、ライオンやコブラやサソリがいる危険な地帯です。そこを旅して、多くの財宝を積んでエジプトにたどりついたとしてもエジプトは助けにならないと主は言います。その苦難は水の泡です。ラハブとは、ヨシュアがカナンの地に入ろうとして、エリコを探るために送った2人の斥候をかくまって助けてくれた女性です。知恵が豊かで度胸も実行力もあって、イスラエルがエリコに侵入するための大きな役割を果たしました。彼女の一族はエリコの戦いの時、守られて、イスラエルの民に加えられました。
8-11節:み教えの拒否について
予見者イザヤは、エジプトに頼らず神に頼れと教えますが、ユダの指導者たちは、神のことばを拒否します。逆に、神が自分たちの行動を認めていると民に嘘をつくよう求めます。それは、道から外れたこと、イスラエルの聖なる神を無きものとすることです。
12-17節:破滅について
神の教えを拒否して、神に反逆する罪によって、自分たちを守る城壁が倒壊するほど割れが広がり粉々になってしまう。民は脅しによって逃げ出し、最後には山の頂に旗しか残らない。早馬に乗って逃げても、更に早い追手につかまってしまう。でも、神は言っていました。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」
南ユダのヒゼキヤ王は、エジプトに信頼してアッシリヤに敵対しようとしていました。神はイザヤを通してヒゼキヤ王をいさめ、神に立ち返るように促しているのです。
周りを敵に囲まれ、何か助かる手はないかともがいているとき、「立ち返って落ち着いている」、「静かに信頼する」ことは簡単ではありません。世の中には、不思議な人がいます。そんな状況でも、心配するそぶりも見せず、ドーンと座っている人。肝が据わっているようにみえます。何が違うのでしょう。
そういう人は、失うことを恐れていません。そして、心の中に錨のように動かない物、確信している言葉にしっかりつかまっています。聖書はそれを隅の頭石だと教えています。私たちにはそれが与えられています。イエス・キリストです。
(小室 真)
後半では民を立たせて下さる神の姿が語られます。
18-26節:民を立ちあがらせて下さる神
18節「それゆえ」というのは、15節「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」という約束、民を救うと言う約束を主は果たそうとしておられます。
19節、叫ぶ声を上げる民に恵みを与え、答えて下さるとあるように、神はシオンの民、私たちの祈りに応えて下さいます。
20節、「苦しみのパンと虐げの水」とは、捕虜や奴隷にされた状況を表わす表現です。ユダの民がバビロンに捕囚となること、更に神を信じる者の苦難まで含んで話されているようです。どんな苦難の中にあっても、神が教え導く声を民は聞くことが出来るのです。その結果、22節にあるように何の力もない偶像に頼ろうとする思いがなくなります。それだけではありません。23、24節にあるように、神は、あなたが蒔いた種を豊かに実らせ、家のすべてのもの、家畜に至るまで主の祝福を受けるのです。
25節の「大いなる殺戮の日、やぐらの倒れる日」とは、アッシリヤの軍隊を主が全滅させて、エルサレムの城壁を攻めるやぐらが破壊される日のことです。ユダの地は水のないような所まで水で潤されると言うのです。いのちの水の川、民を癒す木の葉、夜のない都、神の栄光が照らす都など、ヨハネの黙示録にある新しいエルサレムを思い起こさせます。
27-33節:敵対する者への神の戦い
エルサレムの民は神の深い恵みを喜んで祭りを祝いますが、アッシリヤをはじめ敵対する国々は容赦なく懲らしめられます。
33節のトフェテは、エルサレムの南西、ベン・ヒノムの谷にある場所で、子供をいけにえとしてモレク神にささげていた所です。神は、イザヤ、エレミヤを通してこれをきびしく禁じていました。ここでは、敵対する王を葬る場所として、火と薪が用意されていると言うのです。
神は、神の民と信頼と恵みの関係を持ちたいのです。人が神を信頼し、神は人に恵みを施すという関係です。20-21節に主を信頼して待ち望む者たちに与えられる、「恵み」が語られています。アッシリヤから救い出された後、またイスラエルの民が苦難にあったとき、教師が常に導いてくれるのです。この教師は聖霊の働きと考えられます。あなたが歩む道を選ぶとき、主とのかかわりが最善になるように、背後から教師が声をかけて下さるのです。
パウロはローマ8章4節で「肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされる。」と書かれています。また、26節、「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」と言っています。
イザヤの預言から700年後、パウロはイザヤの示した「教える方」、聖霊を見続けていたのです。
(小室 真)
