バビロンに奴隷として引きずられていくイスラエルの民の嘆き、救いを求める叫びが63章から続いています。64章です。時代時代で苦難の中に置かれたイスラエルの民に共通する嘆きと祈りです。
1-4節: イスラエルの民が知る神の力
「あなたが天を裂いて降りて来られると・・・」
イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活から脱出する時、雲の柱、火の柱に守られていたことで神の守りを肌で感じていました。それでも神のご臨在に恐ろしさを抱いたのはシナイ山のふもとに宿営した時のことでした。出エジプト記19章18節「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上(のぼ)り、全山が激しく震えた。」民は震えあがっていました。
あの神が天を裂いて降りてこられれば、敵はおびえて逃げ出し、イスラエルの民は救われる。という確信がありました。だから、神を待ち望む民の所に早く来てください。とイザヤは祈ります。
4節で、イスラエルの神以外に、地上に降りて来られる神がいるなど、今までに聞いたことも見たこともない。ただ、イスラエルの神だけが自分を待ち望む者のために地上に来られる。とイザヤは預言しています。
パウロはこの4節の預言を受けて、コリント第一の手紙2章8,9節で説明しています。
「この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。」
神が人の救いのために備えられたこととは、神ご自身が天から降りて来るのではなく、神の子イエス・キリストを人としてこの世に送られ、数々のことばと奇跡でそれを示されたのだと、パウロは教えています。
5-7節: 咎あるイスラエルの民
5節の「あなたの道」、「その道」とは、神に救いを求める生活のことです。イスラエルの民は、救いを求めるのに律法や慣習を形だけ守って、自分の満足のために異教の神を崇め、それに喜びを覚えていきました。罪にまみれて神を見失い、心から神を求める者もなく、さ迷っています。その罪の中にいるひどい状態をエレミヤは、不潔な衣を着たままの汚れた姿、風に巻き上げられる枯れ葉の定まりのない様子にたとえています。
8-12節:神の救いを待ち続ける訴え
イザヤは改めて神をなだめ、神に救いを求めます。
バビロンに捕囚に連れていかれてからというもの、神からのゆずりの地、与えられた町々は荒れ果てています。イスラエルの先祖が神を喜び褒めたたえていた美しかった神殿は廃墟となりました。
イザヤは8節で神とイスラエルの民の関係を改めて持ち出します。「今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」
自分達が、神の被造物に過ぎないものではあるけれど、神はイスラエルの民に対して父のような熱心とたぎる思いを持っておられることをイザヤは知っています。私たちはみな、あなたの御手のわざ。神が良いものとしてこの世に置かれた存在です。今苦しんでいるイスラエルの民を救って下さい。と訴えるのです。神の答えは65章で語られます。
(小室 真)