イザヤ書 25章



1-12節

24章の徹底した破壊の預言から一転して、イザヤ書25章は、最高の救いが描かれます。

 

1-5節:私の神

 

 

終わりの日に主は、敵対する世界の町を低くされ、弱い者、貧しい者を守ってくださる。という内容です。

1節で、イザヤは「私の神」と個人的な関係を強調します。私たちにとっても神との関係はとても個人的です。実際に祈りも感謝も個人的なものです。振り返ってみるとその関係は、不思議なものでした。どうして自分は神とこのような個人的な関係を持てたのか。それは偶然の事ではなく、「遠い昔からの不思議なご計画」の上にあるのだとイザヤは伝えます。弱く貧しい者を守ってくれているのです。イザヤもそうでした。

 

6-9節:死を飲み込まれる主

 

 

終わりの日に神の祝宴が開かれ、もう悲しみが終わることが書かれています。

イエス・キリストがエルサレム、シオンの山から世界を治められる時に、ここに書かれているような大きな宴会が開かれるのです。マタイ8:11では、「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。」

また、黙示19:9でも「御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。」とあります。

ここでいう宴会は、主の前に喜ぶ礼拝と日々の喜びの生活のことです。

 

6節で、脂という言葉が繰り返し出てきますが、聖霊が働いて私たちが祝福される事です。

7節の「万民の上をおおうベール」、「万国の上にかぶさる覆い」とは、民や国からキリストを隠す、世の誘惑や悪霊の力です。もし、人がキリストに目を向けるなら、主の栄光を見ることができます。2コリント3:16で、パウロは「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」と語っています。

 

8節:終わりの日の大きな恵みが語られています。

生きている者にとって重大な関心は、「死」です。私たちが朽ちない復活の体を着るときに、「『死は勝利に飲み込まれた。』というみことばが実現します。(1コリント15:54)」永久に死が滅ぼされ、死に伴う悲しみや涙、そしりも取り除かれます。黙示録21章で、天からエルサレムが降りてくる時、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。(4節)」と約束されています。「すっかり」というところに、母親が泣く子の涙をていねいに拭いているような優しい神の姿が書かれています。

 

9節:人の目から神をさえぎる覆いを取り除き、死の力を飲み込み、悲しむ者の涙をぬぐってくれる神。つまり、「自分を守ってくれる強い力、不老不死、悲しみの時の慰め。」これは究極の救いです。人は、あったら良いとは思いますが、望むことさえ諦めて、もがいて生きています。そういう神があなたの前にいるのだと、その御救いを楽しみ喜ぼうとイザヤは教えています。

 

10-12節:引き倒される城壁

 

 

主の祝福に加わろうとしない者、求めようとしない者に対して、神はそのままでは祝福を与えられません。

その代表がモアブとして書かれています。栄光のイエスの姿を見ても、へりくだらない。神に救いを求めることもしない。自分の手の巧みさを誇って、高ぶりの中で自分の命を救おうと努力しますが、その高ぶりの要塞も城壁も粉々にされて、チリのようにされる。誇りも高ぶりも砕かれてしまうのです。かたくなだった人もそこで初めて主の救いを知るようになるのです。

 

 

8節に戻りますが、「死が飲み込まれる。」という表現は不思議な言い回しです。「死」というものが飲み込まれる対象として見ることが出来た人間はいないと思います。人にとって死とはそれほど大きな存在です。こんな発想が出来るのは神しかいません。しかもその死を飲み込んで、滅ぼしてしまう存在として神がおられる。そんなにも神は大きいということです。

 

ついつい個人的な祈りだけのつながりで神を見ていると、神様を小さく見てしまいます。本当に神は偉大な方です。どんな者にも救いを与えられる、私たちが待ち望んでいた究極の救い主です。その御救いを楽しみ喜びましょう。

(小室 真)