17章はダマスコへの宣告です。
南ユダ、イザヤがいる所の東が16章で宣告があったモアブ、その北が北イスラエルで、エフライムとも言います。更に北にアラム、首都がダマスコです。ダマスコは大きな都市でした。現在シリアという国で首都のダマスカスです。更にその北のアッシリアが強大になりつつありました。
創世記では、アブラハムがダマスコを通ってカナンの地に来たことが書かれています。ダマスコ出身のエリエゼルを召使いにしていました。約500年後、ダビデ王朝の時代、ダマスコのアラムはダビデに敗北して、イスラエルに仕えるようになりました。使徒の働きの時代、ダマスコにはキリスト者がたくさん生まれました。パウロはダマスコのキリスト者を捕えに行く途中、強い光を受けて目が見えなくなりました。ダマスコでキリスト者のアナニアに祈ってもらっていやされた、その地です。
1-3節:アッシリアがダマスコを攻めて破壊した状況を、アッシリアがモアブや北イスラエルを攻めた時の状況と比べています。モアブのアロエルは、人々が逃げ出して、放牧地になってしまう。北イスラエルのエフライムは要塞が滅ぼされる。一方で大都市ダマスコは瓦礫の山となり、国ごと失われてしまうという、ひどい状態になると預言しています。実際にダマスコは紀元前732年に陥落し、北イスラエルはその十年後、紀元前722年に陥落しました。「ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。」という預言は厳密には、そうなりませんでした。ダマスコが廃墟となったのは2012年、シリア内戦での出来事になります(次のプロジェクターをお願いします)。そして、アラムの残った者はイスラエルの子の栄光のようになるというのですが、その様子が次に語られます。
4-6節:イスラエルの子らの栄光は衰え、痩せ細るというのです。
レファイムはエルサレムの近郊の農耕地です。その畑に落ちている落ち穂、収穫の終わったオリーブの木の実の残り、そんなわずかなものしか残らないということです。とても栄光と呼べるものではありません。
7-9節:その日、主の日に、破壊尽くされたダマスコの残りの者の中に、自分を造られた神をあがめる者が出て来ることが預言されています。これは、ダマスコのアラム人に起こるだけではありません。異邦人の中に、救い主であるキリストに目を注ぎ、人の手が造った物、偶像を捨てる者があらわれるという、終わりの日の預言を含んでいます。確かに使徒の時代にはそのようになりました。
10-11節:ダマスコのアラム、アロエルのモアブ、エフライムは滅びます。その原因は、神に頼らず、アッシリアに助けを求める南ユダにある。とイザヤは言います。「あなた」は南ユダ。他国のぶどうのつたとは、アッシリアへの協力要請のことです。アラムとエフライムが南ユダに攻め込んで来たことが引き金となったのですが、たとえそれでも、南ユダのアハズ王が神に救いを求めず、アッシリアに救いを求めたことが原因だというのです。
12-14節:実際に、アッシリヤの軍隊は多くの国を征服して、多くの国の兵を集めた強い軍隊でした。あっという間にダマスコのアラム、アロエルのモアブ、エフライムを滅ぼし、更に南ユダのエルサレムを18万5千の大軍で包囲したのです。ところが、主が叱られると、この大軍も軽い籾殻(もみがら)のように吹き飛ばされてしまった。夕方までエルサレムの城壁を包囲していたアッシリヤの大軍隊は、翌朝早く起きてみると、みな死んでいたのです。
17章はダマスコへの宣言とされていますから、これらのことばは、ダマスコが滅ぼされる前に告げられたことばですが、歴史は、ほぼ預言の通りに展開されていきました。
注目したいのは、7節です。『その日、人は自分を造った方に目を留め、その目はイスラエルの聖なる方を見る。』
アラムの残った者のように、イスラエルの民でなくとも、国が、町が、家が、家庭が、人生が破壊されて、それでも残された者に慰めが与えられるのです。その人は、人の手で造った物に、たよれるものはなかったことを知っています。ただ頼れるとするならば、それでも自分を存在させておられる方。わたしを造られた方。囚われた者を檻(おり)から救い出して下さるイスラエルの聖なる方、キリストがおられことを知ることが出来るのです。
(小室 真)
