イザヤ書61章



 

60章で、「起きよ。輝け。」と神が命じ、イエス様がよみがえられたことを学びました。神がイエス様を通してこの世界に光を輝かせておられるのです。続く61章です。

 

短い章ですが、代名詞に注目して節のまとまりを見ていきましょう。1-4節はひらがなの「わたし」。5-7節は「あなたがた」、8-9節はもう一度ひらがなの「わたし」。10-11節は漢字の「私」のまとまりと考えられます。ひらがなの「わたし」は神又はキリストを、漢字の「私」は人のことを示しています。

 

1-4節:油注がれた者の働き

 

 

「わたし」はイエス・キリストです。

1―2節はイエス様がヨハネの洗礼を受け、サタンの試みに会った後、安息日に自分の生まれ故郷ナザレの会堂に入られました。係の者からイザヤ書が手渡されて、朗読されたのがイザヤ書61章1節です。

「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。」

さて、朗読を終えると、イエス様は言われました。「あなたがたが耳にした通り、今日、この聖書のことばが実現しました」ご自身の福音が始まったことを宣言した時のみことばでした。(ルカ4章18節)

 

実際に、このみことばは皆、実現していきます。

「神である主の霊がわたしの上にある。」これが実現したことについては、マタイ3章13~17節でバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、水から上がられた時、天が開けて神の御霊が鳩のようにイエス様の上に下りました。天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と声がありました。

 

次に、「貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」これが実現したことについては、

マタイ11章2~6節で、バプテスマのヨハネが自分の弟子たちをイエス様の所に送った時こう言われました。

 

「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」聖書にはイエス様が多くの奇跡を行ったと書かれています。イエス様はご自分の業をこのように表現されたのでした。これはイザヤ書61章に書かれていた通りでした。

 

2節に「われらの神の復讐の日を告げ」とあります。これは、すべての嘆き悲しむ者を慰めるためになされるのです。神の復讐の相手とは誰のことでしょう。・・・死です。死人たちを生き返らせただけでなく、最終的にイエス様自身がよみがえられて永遠のいのちを得、人々を死の力、死の悲しみから解き放たれるのです。

3節の、嘆き悲しみ、灰、憂いの心。これらは、死によってもたらされるものです。これが、死を滅ぼすことによって、喜びの油、頭の飾り、賛美の外套に代えられるのです。

 

5-7節:救われた者の働き

 

 

「あなたがた」とは、主に従う者たちのことです。その者達が受ける主の恵みは次のようなものです。主に従う者たちは、異国の民によって資産も食も賄ってもらい、自分達は主の祭司として主に仕える生活をするというものです。異国の民を奴隷とするのではありません。助けてくれるのです。そこで受ける富は、今まで受けてきた虐げの倍以上になると言われます。

 

8-9節:与えられる契約

 

 

この「わたし」は、イエス・キリストとも神とも取れます。8節に永遠の契約を結ぶと言われているのは、イザヤ書55章3節で示されていた永遠の契約です。

「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」

私達のなすべきことは、神のところに出て行き。耳を傾けて聞くことでした。その契約の元にいる者たちが、【主】に祝福された子孫であることを世界中がそれをはっきり認めると言います。

 

10-11節:救われた者の喜びの応答

 

 

ここの「私」は訳によって漢字のものとひらがなのものがあります。

漢字の訳の場合、主語が「人」ですから、「主に祝福された子孫である私が、神から受けた救いの恵みを証して感謝する」と読めます。

ひらがなの訳の場合、主語が「イエス様」になって、「神によみがえらされたイエス様は喜びにあふれて世界中に救いをもたらし、神の力が世界に広がる」と読めるのです。

 

いずれにしても、イザヤ61章は、主の恵みが始まっているという宣言なのです。

(小室 真)