イザヤ書 2章



1-9節

イザヤ書1章は、ユダとエルサレムについてイザヤが見た「幻」でした。北イスラエルが破滅すること。残されたユダとエルサレムも今は神に背いているが、主に立ち返れば、救い出されれることが書かれていました。

 

2章、1節では、ユダとエルサレムについてイザヤが見た「ことば」と言い換えています。神から与えられた預言に変わりはありませんが、ここでは、「終わりの日」と、テーマが変わったことを強調しています。終わりの日の預言は5章迄続きます。2章はその最初の部分です。

 

終わりの日とは、いつのことでしょう。申命記4章30節で、40年の荒野の旅を終えると、モーセはイスラエルの民をヨルダン川を渡らせてカナンの地に送り出しました。のちの日に、イスラエルの民がカナンの地から追われることを預言してこう言いました。「こうして終わりの日に、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたが苦しみのうちにあるとき、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従う。」 終わりの日とは民が苦しみののち、神に立ち返って従うようになる日です。ユダヤ人は、それは遠い将来、真(まこと)の王メシアが来られる時代と認識していました。

 

2-4節にある、終わりの日に起こると預言されたことは、本当に素晴らしいものです。

①すべての国、多くの民族が偽りの神とその偶像を離れ、神の山に集まり、神にへりくだって神から教えを受けようとする。

②国々が神の判決に従うようになる。

③武器を農耕機具に作り替え、国同士の争いを止めるようになる。

こんな世界になったら、今の国際紛争はすべて無くなります。イザヤの時代も、現代でも、困難な中にいる人々、平和を愛する人々は、イザヤが預言した終わりの日を夢見て、祈り続けています。

 

終わりの日とは、いつでしょう。

イエス様が復活された時?イエス様が再臨される時?もう来ている?まだ来ていない?いろいろな見解があります。確かに現在も世界中に紛争があってイザヤの預言は実現していません。だからまだ終わりの日は来ていないと多くの人は考えています。

 

ニューヨークの国連本部ビルの壁には、2章4節のみことばが刻まれています。

「They shall beat their swords into plowshares ,And their spears into pruning hooks

;Nation shall not lift up sword against nation ,Neither shall they learn war anymore.」

「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」

 

国連が、このみことばを掲げているということは、世界の多くの国が、イザヤを通して語られた神のことばを、人類の進むべき方向として示しているということです。

 

多くのキリスト者は、終わりの日は、イエス様の復活された時から始まり、今も「終わりの日」の中にあると理解しています。キリスト者は、人々と共に、神の御心が成るように祈り続け、働き続けることが、神に与えられた人の役割、被造物管理という役目だと考えているのです。

 

5節で、イザヤは、「ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。」と呼びかけますが、ヤコブの家、南ユダとエルサレムの民は耳を貸しません。6-9節にヤコブの家の現状が語られます。

 

アハズ王が異教の神々の偶像を町々に据え、異教に従う者がユダの国内に増えました。ユダ国内を偶像や占いで満たしたのです。また、財宝で満たし、それを国力と考え、馬や戦車の武力で満たし、それに頼って、神から離れていました。

 

人が人間の手で作ったものを拝むことは、人に造られた物の下に自分を置くことになります。財宝と戦力に身を守ってもらうことで、石と金物、馬と戦車、その下に自分を置くことになります。イザヤは、「こうして人間はかがめられ、人は低くされます。」と語るのです。ヤコブの家の状況は、現代もそのままです。国々も家々も財宝と戦力を一番に求め、これに頼っています。

 

神は人を、ご自身のかたちとして創造されました。それは非常に良かったと神は言われたのです。そして神は人を祝福されました。人は自分を造られた神の下に置かれるべき者なのです。神に置かれた自分の場所で、神に従って生きる人生について考えたいと思います。

(小室 真)

 


10-21節 未完

イザヤ書2章から5章は「終わりの日」について、神のことばが語られています。前の2章1-9節には終わりの日の素晴らしさが書かれていました。「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す」また、「もう戦うことを学ばない」などです。

 

続く10-21節には終わりの日に来る、神の威光の現れが詩的に表現されています。

詩は、表現をいろいろに言い換え、波のように繰り返し、心に訴えかけてきます。皆さんは読まれて、どのように感じたでしょうか。

 

詳しく見ていきましょう。

11,12,17,20節で、「その日」と時を特定しています。これらのことが終わりの日に起こると強調しています。

10,19,21節では、「主の恐るべき御顔を、その威光の輝きを避けて、身を隠せ」と呼びかけ、「身を隠すようになる」とこれも繰り返し言うのです。

 

次に

11,12,17節では、「人の高ぶりの目は低くされ、思い上がりはかがめられる」と繰返します。

特に12節では、「すべて」が10ケ並んでいます。それは高ぶる人々、人間があがめ頼ろうとした物です。それらは被造物と、人が自分の手を加えて加工した物です。

 

11,17節で「主おひとりだけが高く上げられる。」と繰り返し、一方で、18,20節で、偽りの神々は捨てられる、消え失せると繰り返します。

 

これら複雑な言い換えと繰り返しによって強く訴えかけている中心は「主お一人だけが高く上げられる。」というみことばです。

 

この中の、「人間の高ぶりはかがめられ、人々の思い上がりは低くされる。」という内容は、2章9節の「人間は自分の指で造った物を拝むことで、人間はかがめられ、人は低くされます。」と言われたことと、一見同じように見えますが、本質的に違います。

 

人が物を崇めることは、人が神に背中を向けて、神に替わるものとして勝手に自分の指で造った物を自分の上に置いて、自分を低くすることです。10-21節では、「主おひとりだけが高く上げられる」。つまり、神が人間の上におられることをはっきり知って、今まで崇めていた物を捨てる。自分が神の下に置かれている人間にすぎないことを自覚することです。神と人間にふさわしい関係、あるべき姿に戻ることなのです。

 

10,19,21節の「主の恐るべき御顔を、その威光の輝きを避けて、岩の割れ目や、巌の裂け目に入る」という表現があります。恐い感じがするかもしれませんが、実は、これは神からの恵みです。

 

モーセが、ホレブの山で神の栄光を見たいと求めた時、神は言われました。出エジプト記33章20-23節です。『「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」』モーセは、神が通り過ぎるまで岩の裂け目に隠してもらって、命拾いしたのです。

  

以上のように10-21節では、終わりの日の主の栄光が現れる時、「主おひとりだけが高くあげられて」、世界が整えられること、栄光が現れても人が死なないように神は人々を守ってくださるという恵みがあるとイザヤは預言しているのです。

(小室 真)