イザヤ書 3章



2章22節-4章1節

2章から5章は「終わりの日」について、神のことばが語られているのですが、

今日の所を読んで皆さんはどのように感じられたでしょうか。

 暗い、苦しい、分かりにくい、なんで章またぎなの?・・・、ずいぶん長い・・・、

2章の最後から4章のはじめにかけて続けて見ていきます。

 

全体で何が書かれているのかを理解するため、骨組みを見てみましょう。

「主」がどうされたか、だけに着目すると7節に絞られます。

主はエルサレムの支えを取り去る。民がつまずき、倒れ、主に背いたから。主は裁きの座につかれる。シオンの娘はひどい状態に陥る。という内容です。

その理由は8節です。「エルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行いが主に背き、主の栄光の現れに逆らったから。」です。

これについて何が書かれているか、まとまり毎に見ていきたいと思います。

 

①主は、支えと頼みになるものを除かれます

22節、「鼻で息する者」に頼るなと言っています。創世記2章7節で、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」とあるように、人は神によって造られた、弱い存在です。イザヤは人に価値がないと言っているのではなくて、「人を救う者として人間は頼れない」と教えています。

 

主はエルサレムとユダから、人が心の支え・頼みにしているものを除かれると言われました。南ユダの人々が、頼りとしていたもので、取り去られるものが延々と歌いつづられていきます。

 

生活に必要なパンと水のような存在。戦士たち、占い師、国を管理する人々が取り除かれる者として挙げられます。

 

②支えとなるべき統治者が不適切な者になる。

国を支える統治者が、気まぐれで力のないものに代えられ、社会の秩序が乱れていく様子が書かれています。物を持っていることでリーダーに担ぎ上げられるように、リーダーの資格は軽んぜられ、リーダーとなって責任を果たそうと立つ者もいなくなります。

 

③社会崩壊の原因についてです。

社会が崩壊する原因が語られます。それは、エルサレムがつまずき、ユダが倒れたから、そしてユダとエルサレムが「主に背き、主の栄光の現れに逆らったから」でした。主の栄光を前にして、人々は正しい者と悪しき者に分けられてしまいます。12節は、秩序が乱れた状態のことで4、5節の言い換えになっています。

 

④主が不正の指導者をさばかれます。

その日、主は裁きの座で不正の指導者と論じ合います。ぶどう畑とは、ユダの貧しい者たちのことです。君主や長老たちが貧しい者からかすめ取り、抑圧していることを責めるのです。14-15節は、12節と同じように秩序が乱れた状態のことです。

 

⑤シオンの娘たちの姿です

頼りとする者を失ったイスラエルの民について15節まで語ってきたことをシオンの娘の姿にたとえて繰り返しています。自分の本来の美しさも、身を飾る物も、頼りになる者も失われたシオンの娘の姿です。戦争で男はいなくなり、女たちは夫にパンや着物も求めることはあきらめて、ただ名前だけを求めて、男を分け合うことになるのです。17節の表現は9節の言い換え、4章1節は3章7節の言い換えになっています。

 

「終わりの日」は、狭い意味では、南ユダ王国の出来事を指していますが、「エルサレムとユダ」を「神の民が置かれたところ」と広くとらえる必要があります。イザヤの預言した状況は、今の時代にそのまま当てはまるように感じます。

 

改めて、世界の乱れの原因を見ると、8節。「エルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行いが主に背き、主の栄光の現れに逆らったから。」でした。Ⅰコリント1:23に、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが」と書かれているように、つまずきの石であるイエス様にユダヤ人はつまずきました。つまずいたというのは、イエス・キリストを神の子として受け入れないことです。「舌と行いが主に背」いたというのは、神もキリストも知りながら神のことばに従わないことです。「栄光の現れに逆らった」というのは、イエスのよみがえりを認めないことでした。世の乱れを直すにはこの一点を解決するしかないのです。

 

なぜ主は、民が支えとし、頼みとしてきたものを除かれたのでしょうか? それは、イエス・キリストだけに人々が頼るようになるためなのです。つまずきの石につまずかず、主の栄光の現れであるよみがえりのイエスを認めて、初めて本当の喜びと本当の平安を得るのです。

 

イザヤの預言している「その日」とは、今日現在を指しています。キリストを信じ従う私たちも、「その日」を生きているのです。10節「 正しい人は幸いだ、と言え。その人たちは自分の行いの実を食べる。」と言われています。何を語り、何を行うか、私たちは問われているのです。

(小室 真)