イザヤ書 10章



5-34節

ダビデ王国が北イスラエルと南ユダに分かれました。その南ユダがアッシリアに攻められる前、他の国にたよるのではなく、主により頼むようにとイザヤは預言しました。その預言が成就した出来事が歴代誌第二32章1~23節に書かれています。

 

歴代誌の内容は、こうです。アハブから王位を継いだヒゼキヤ王は、アハブが宮に置いた偶像を取り除き、神殿も祭儀もモーセの律法に従うようにしました。そのころシナイ地方で多くの国を滅ぼして勢力を伸ばしたアッシリアが、BC722年、北イスラエルを滅ぼします。更に南ユダに戦争を仕掛けてきました。アッシリアの大軍はエルサレムを取り囲んで「イスラエルの神がアッシリアに勝てるわけがない。ヒゼキヤ王にだまされるな。」と、大声で悪口を浴びせ、総攻撃の準備をしました。

ヒゼキヤ王とイザヤは10章の預言を信じて天に向かって祈りました。

 

その晩、主のみ使いがアッシリアの軍を一晩で全滅させてしまいます。アッシリア王センナケリブは自国に引き返しましたが、息子たちに殺されてしまうのです。BC681年の出来事でした。

 

第二列王記18章13節から19章37節には、この時の状況がさらに詳しく書かれています。アッシリアによるエルサレム包囲と破滅の状況が、イザヤの預言通りで驚かされます。

 

イザヤ書10章5―34節です。全体の構成は次のようになっています。

 

(5-11節)神がご自分の怒りの杖としてアッシリアに力をつけさせ、戦いに勝たせていきます。

(12-14節)アッシリア王は、これは私の力だ。知恵だ。実力だ。と思い上がりました。

(15-19節)高ぶるアッシリアに対してイスラエルの神は一日で滅ぼすと宣言します。

(20-27節)必ずイスラエルの重荷とくびきを取り除くから、アッシリアを恐れるなと神はイスラエルの王と民を励まします。

(28-34節)実際にアッシリアは止まることなくエルサレムまで進軍して城壁を囲んで手を振り上げますが、万軍の主がアッシリア軍を恐ろしい勢いで滅ぼされるのです。

 

20節「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。」とあります。ここで言われる、「その日」にはアッシリアから南ユダが救われる日と、BC538年ユダヤ人がバビロン捕囚から解放される日と、現代のイエスとの出会いの日を含んでいます。その日を迎えた私たちも、イスラエルの聖なる方、イエス様に真実をもって頼るようになるのです。

 

「真実をもって頼る。」とはどういうことでしょう。

人が何かに頼ろうとする時、2つの理由があります。一つは、夢や希望があるということです。イスラエルの残りの者にとっては、自分たちを攻める者からいのちが守られることです。もう一つは、自分の力では出来ないということです。圧倒的なアッシリア軍に取り囲まれたエルサレムの人々は、自分たちの力でその戦いを勝ち抜くことは出来ないと諦め、神のことばにすがったのです。

 

33節「見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払われる。丈の高いものは切り倒され、そびえたものは低くなる。」アッシリアを切り払う。と預言し、それは現実となりました。神のことばもその成就も、神に頼る者に与えられた恵みです。

 

聖書の言う「その日」は、一日だけのことではありません。イスラエルの民の歴史を通して何回も何回もありました。そのたびに神はことばを与え、成就させ、神の恵みが真実であることを示してきたのです。

 

私たちは、イエス様のことを死からも困難からも救ってくださる神の子と信じ頼っていますが、神に頼ることが受洗した時点で完全に達成できたわけではありません。平穏な時には神から離れ、困難にぶつかるたびに、信仰が揺らぎ、それでも神に頼ることで恵みを得る体験を何回もして、神様が真実な方だという土台が自分の中に固まって来る。自分の真実ではなくて神の真実なのです。

 

もう自分の人生こんなものと納得しておられる方もいるかもしれません。十分恵まれていて苦難と感じることもなく、神に頼ろうと思うことも特に見当たらないと。

 

コリント第一の手紙 13章13節に、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。」とあります。

神を、人を、被造物を愛することから、夢や希望が湧き、信仰によってそれが形となっていく。

夢や希望があることは幸せなことです。未来に向けて目が開かれたときに「真実をもって頼る。」ことが心を明るくしてくれるように思うのです。「毎日が幸せだ」と感じて生きる人生がそこにあるのです。

(小室 真)