イザヤ書1-12章は、イスラエルについての預言が中心でした。13-23章はイスラエルの周辺の国についての宣告を中心に書かれています。最初の宣告、13章1節から14章27節はバビロンについての宣告です。バビロンが、南ユダの人々を捉えて奴隷にして、自分の国へ引いてくこと、そのバビロンが滅びてしまうことを語っています。その中に、南ユダに向かって書かれている所があります。その部分、イザヤ書 14章1-8節です。
14章1節「主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選んで、彼らを自分たちの土地にいこわせる。」と言われます。「再び」というのは、今回の選びが2回目ということです。1回目は、モーセの時代、イスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦しめられていた時のことでした。主はイスラエルの民を自分の民とされて、エジプトからカナンに導かれました。2回目は、南ユダからバビロンに連れていかれて奴隷とされる時のこと。そこで苦役の生活を強いられる時のことです。
3-6節で南ユダの民が、バビロンの王をあざけっている内容から奴隷の苦しみが分かります。
3-5節。イスラエルの民は痛みを負い、過酷な労働をしいられ、虐げと横暴を受け、悪しき支配のもとに置かれると書かれています。奴隷は人として扱われません。自由もありません。
7節で「全地は安らかに憩い、喜びの歌声をあげる。」バビロンの支配から解放されるときの喜びを表わしています。「憩う」とは、からだや心を休めて、くつろぐこと。過酷な労働や、虐げと横暴という肉体的にも精神的にも圧迫を受けていた者が救われる状態です。
この預言は、BC690年頃にイザヤに与えられた預言です。実際にイスラエルの民がバビロンに奴隷として引かれていくのがBC597年。100年後のことです。ペルシャのキュロス王によって解放されるのがBC537年。更に60年後のことです。イザヤを通して与えられた預言は、ことばの通りになるのに、長い年月がかかりました。
イザヤが預言した時、南ユダはモアブや北イスラエル、更にアッシリアに襲われていました。「モアブやアッシリアが攻めて来るが恐れるな」と書かれた12章までの預言はイザヤの時代の人々には現実味がありました。ただ、目に見えている分、信じるのが難しかったかもしれません。
13-14章の預言では、イスラエルの民がバビロンの奴隷にされると言われましたが、当時のバビロンはかつての力を失い弱まっていました。本当かと疑う者もいたでしょう。または、いつ起こるのだろうと怪しんだかもしれません。ただ、神は支配者のバイロンを滅ぼして御自分の民を将来にわたって必ず安らかに憩わせてくれるという希望を与えることばでした。
現代の私たちに、13-14章の預言はどういう意味があるでしょう。
神が滅ぼすと言われたバビロンは、地上のバビロンに重なる霊的なバビロンのことを意味しています。霊的なバビロンとは、おごり高ぶって神の怒りを招いている強大な国、力とお金に救いをもとめ、キリストの救いを認めないサタンに支配された国のことです。
南ユダの民を苦しませたバビロンが滅んだように、今の人々を痛め苦しめている現代のバビロンを神が滅ぼして下さる。主がヤコブをあわれんだように、再び主は、神に従う民を選んで、憩わせて下さる。全地は安らかに憩い、喜びの歌声をあげる。イザヤはそう預言しているのです。イエス様がよみがえられたのち、ヨハネは黙示録18章でバビロンが滅びる幻を改めて神に見せていただいたのです。イザヤの預言の800年後のことでした。
神が見せてくれる歴史はミルフィーユのように何層にも重なっていますが、最終的に「主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選んで、彼らを自分たちの土地にいこわせる。」。のです。
(小室 真)
