イザヤ書が39章まで語っていたことは、まず、アッシリヤに包囲されたエルサレムが神の奇跡で救い出されたこと。そして、死の病を患ったヒゼキヤ王が神に祈って15年寿命を伸ばされたこと。最後は、将来、南ユダがバビロンに滅ぼされイスラエルが奴隷にされると、イザヤが預言したこと。BC700年頃のことでした。
その後597年に南ユダはバビロンに滅ぼされ、582年まで3回にわたってイスラエルの民はバビロンに引かれていき奴隷にされました。その60年後、バビロンはペルシャ王キュロスに滅ぼされます。支配した民族の宗教や慣習を配慮するキュロスは、537年にイスラエルの民を解放し、エルサレムに帰って神殿を再建することを許したのです。
40章からイザヤ書は、バビロンの奴隷状態からイスラエルが解放される希望について語っていきます。700年頃に語られたこの預言は、160年間にわたって苦難の中にあるユダヤ人の心の支えとなっただけでなく、現代にいたるまで人々の心の支えとなっています。
1-11節: 良い知らせを伝える声
バビロンは、新バビロニア帝国の首都です。繁栄した都市でした。建築技術が盛んで、ユーフラテス川から水を引き込んだ川が町の中を流れ、空中庭園が造られ、マルドゥク神殿の中心にはジッグラッドという巨大な聖塔が建てられました。偶像の浮彫が施されたイシュタルの門は今も残っていて、当時の繁栄を示しています。バビロンは多くの異教の偶像であふれていました。これらの繁栄の裏には、捕囚とされたユダヤ人たちを含む多くの奴隷の過酷な労働があったのです。
1節の「慰めよ」、バビロンで奴隷として働かされ、異教の偶像や慣習に囲まれて、イスラエルの神を礼拝できない神の民に向けて呼びかけています。
3節の荒野で叫ぶ者の声は、主のために民が帰るのをさまたげる障害が取り除かれ、エルサレムに帰る道が整えられることを告げています。
6節の「叫べ」、目を見張るほどのバビロンの繁栄も、しおれる草のように、散る花のように終わりを迎える。ただ、ご自分の民を救い、エルサレムに帰されると約束された神のことばは必ず実現すると叫ぶのです。
9節の「良い知らせを伝える者」は、主の救いを伝え、人々を勇気づけるのです。
10―11節、救いを実行することで神が得る報酬は、羊飼いに飼われる羊の群れ、懐に抱かれる子羊、子羊を養い育てる羊たちです。
つまり主が自分の民に求めておられることは、優れた行いや力を持つことではなく、主の元から離れず飼われる群れ、弱くても主のふところに抱かれること、その子羊を育てるために働く者たちなのです。
そしてその羊たちが得る報いは、自分達を守り、羊飼いのように導いてくれる主の愛なのです。
イスラエルの民は、エルサレムの神の神殿から遠く離れ、自由を奪われ、異教の偶像と慣習に囲まれ、労苦の中に置かれていました。イザヤ書は彼らに語り掛け、呼びかけ、叫び続け、力の限りに声を上げています。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」
イザヤに続く預言者たちは、自分の民を励まし続けていきます。最後の預言者バプテスマのヨハネも、自分は荒れ野で叫ぶ者の声なのだと言い、民を勇気づけ、その心を整え、神の子イエスがこの羊飼いとして来られることを証したのです。
(小室 真)
BC537年に起こるバビロン捕囚からの解放、それに重なる主の救いの預言が40章から展開されています。前半の11節まで、良い知らせを伝える者の声がありました。バビロンでの苦役は終わり、イスラエルの民の咎は償われて、救い主が来られることを告げていました。後半では、その救いの計画を実行される神の偉大さを褒めたたえます。
12-17節: 主の偉大さ
18-20節: 主を小さく見る人間の姿
21-27節: 世界を創造された主
28-31節: 力を与えられる主
神が救い主を送ってくれるとイザヤを通して言われても、奴隷として虐げられ目の前の苦難に追い込まれている民は信じることが出来ません。27節「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」とつぶやくように、神が自分達の苦しみを見ず、救いを訴える祈りは無視されているとイスラエルの民は感じるのです。
それでもイザヤは、イスラエルの神の偉大さに目を向けるように民を促します。12節にあるように神は海の水も山や丘の土も手の平にすくい、島を指で摘まむほど大きなお方、腕を広げて天を包むほど大きいお方なのだから。
体の大きさだけではありません。知識においても英知においても、神を越えるものはありません。
バビロンには、人の手で造られた偶像があふれていました。その中で奴隷として生活するイスラエルの民に対して、自分たちの神を人の手が造る小さな偶像のように考えてはならないとイザヤは指摘します。
バビロンの町は大きく、空中庭園や、巨大なジグラットがその力を誇示していました。バビロンの支配者たちは大きな権力と暴力で、イスラエルの民を支配していました。イスラエルの民は弱い奴隷で、力なく、気力も萎えています。自分の民をそんな状態のままにしている神。その神は、力のない神なのでしょうか。
とんでもありません。イスラエルの神は、世界を創造されたお方、地の基を据えられたお方、エジプトで奴隷だったイスラエルの民を絶大な力で救い出したお方です。そのことを思い起こすようにとイザヤは民に呼びかけています。
大きく複雑なこの世界を創造されたときでさえ、神は疲れを知らず、弱ることもなく、英知が尽きることもありませんでした。この世界は神の英知と喜びのかたまりです。
イスラエルの民の若い者たちは、奴隷生活に疲れ果て、力を失い、絶望して倒れます。自分が疲れて弱りはてている時、自分が回復する姿を思い浮かべることができません。周りの人々も疲れているように見えてしまいます。しかし、私たちの神は、主を待ち望む者に、主と同じように、力を与えて、倒れることがないようにして下さる。神ご自身が、常に新しく力を持って、翼を広げ、力衰えず、疲れない方だからこそ、それが可能なのです。
「おまえの苦役は終わり、その咎は償なわれている、そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている。」
「さあ、希望を持ち続けるように。」と神は疲れている私たちを励まし続けています。
(小室 真)
