イザヤ書 26章



1-11節

前回イザヤ書25章は、最高の救いが描かれていました。26章では、これに続く完全な平和が歌われています。その前半部分です。

 

1―6節:神の完全な平和

 

 

その日、神の民は、エルサレムに与えられる神の完全な平和を喜び歌います。住まいのある町の城壁と塁は敵の侵入を防いでいます。それは物理的なものではありません。神ご自身が火の城壁となってくれるので、どんな攻撃にも地震にも崩れることがありません。忠実な民はその町の門から入って来ます。

 

ヨハネ10章9節で 「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」その町の門はイエス様です。3節の「志の堅固な者」の志は、自分の志ではなくて、イエス・キリストを自分の救い主と信じさせてくださった、聖霊の働きです。

 

「全き平安」は、平和を意味するシャロームを重ねています。シャローム・シャロームです。平和の中の平和です。

 

神の平和の下では、高ぶる者の高ぶりが、苦しむ者の足、弱い者の足の裏より低くされるのです。だれも人を支配しようとしたり、いじめようとしたり、見下したり、奪おうとしたりすることがありません。そのような状態が、平和の中の平和なのです。

 

7-11節:イザヤは神を呼び続けます。

 

 

正しい人、つまり神にすべてを赦された者は、神を待ち望み、神を慕い、神の救いを切に求めています。「さばきの道」を歩み、「さばきが行われるとき」が来ても、信仰によって義と認められている人には、恐れはありません。

 

私たちは、あなたの御名、あなたの呼び名で主を呼び求めます。・・・・・あなたの御名はイエス。あなたの呼び名はキリストです。マタイ・マルコ・ヨハネの各福音書1章で、イエス・キリストの系図、とかイエス・キリストの福音のはじめ、と使われていますが、イエス様が生きている間はただ、イエスとしか使われていません。使徒の働きでペテロはイエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせています。多くの手紙を書いたパウロはずーっとイエス・キリストと呼んでいます。イエスの復活の後で、イエス様がイエス・キリストと呼ばれるようになっていることは、イザヤ書のこの預言の成就です。使徒たちにとって、イエス・キリストの名前はたましいの望みになっています。

 

それは、私たちにとっても同じです。

私たちが日々、イエス・キリストの名前によって祈る中で、私たちの高ぶりも、他の人の高ぶりもチリのように足元より低いものにされ、神の赦しを受けて全き平和、平和の中の平和の時が与えられるのです。

(小室 真)

 


12-21節

26章は、終わりの日、その日に、ユダの地で歌われる歌です。後半、「主への賛美と民への警告」が歌われています。

 

12-14節  全き平和を用意しておられる主を褒めたたえています。

 

 

人が平和のため、福音のため、一人一人の思いに動かされ、また生活の為に働いた、私たちの全ての業。その背後に、神の働きがあります。人のために働いていたと思ったことが、自分たちの為に神が働かれている。私たちのために平和を備えてくだっているというのです。

13節の多くの君主とは、ユダを支配したバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの王たちです。彼らはあたかも神のように振舞いましたが、死ぬべき定めの罪深い人間にすぎませんでした。彼らの支配の中で、イスラエルの民は神である主を呼び求めるのです。主が世界を支配して民に平安を与えてくだされば、もう昔の王たちの記憶も消し去られます。

 

15-19節  国境を広げ、主を慕う多くの者を起こされる主を褒めたたえています。

 

 

これは世の終わりの神の国の姿です。実際にイエス様がよみがえられてからのことです。神の国はかつてのイスラエルの国境を越えて世界中に広がり、世界中に救いにあずかる者が起こされています。主はこの国民を増し加えられるのです。

世界に広がる神の国にも苦難があります。それは、12節の「私たちのすべてのわざ」の事です。神への救いの中で生きながらも、懲らしめを受け、出産の時のような苦しみを味わうことになります。神の国を求める働きは苦難に満ちています。その苦難は、あたかも、苦難の先に何も生まないのではないか、地に救いをもたらすことなどできないのではないか、主の民はもう増えないのではないかと思わせるほどのものなのです。ところが、神が現わされた栄光は、神の民の死んだ者を、よみがえらせて、わたしたちの全ての業の結果を見せてくれるのです。

 

20-21節  その日を迎える神の民に警告しています。

 

 

これは、イスラエルの民がエジプトから救い出される最後の夜、過越の時、神がモーセに命じたことです。民は過ぎ越しの小羊の血を門柱に塗り、戸を閉じ、身を隠すようにと命じられたのです。地の上でなされたすべての罪が明らかにされ、さばきの主が町中を行き巡り、罪を犯した者はさばかれます。その時、神の小羊イエス様の血による救いを受けた者は、その救いの内に身を隠すように命じられます。

 

改めて18-19節を見てみましょう。

 

私たちのすべての業の中でも、苦難の時、日々の祈りは真剣になります。切実です。ドイツの神学者ボンヘッファーは第二次世界大戦でヒットラー殺害を計画して捕らえられ、牢に入れられ、最後には絞首刑で死にました。彼はこう言いました。「神は安楽な生活を通してよりも、苦しみを通して多くのことを学ばせられる。苦しみがあるからこそ私たちは祈り、その祈りによって成長していくことができる。」

 

また、ダビデは詩篇119篇71節で、

「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」

 

ボンヘッファーもダビデも、神の御前に苦しみと向き合い、神から教えられて生きていたのです。今も二人のことばと歌は、苦難の中にいる人に勇気を与え、力となっています。

 

人は必ず死にますが、イエス様が死からよみがえられたように、イエス様の十字架の死とよみがえりを信じる私たちも、よみがえらせていただけます。しかも霊のからだを与えられて。

 

19節の「あなたの死者」という表現。死んだ者なのに、神の所有物とされています。死んだ者を生きかえらせ、よみがえらせてくれる。「覚(さ)めよ、喜び歌え。」と呼びかけてくれる。ここに神の慰めと愛があふれています。主のもとに屍からよみがえらされた時、命をえるだけではありません。私たちがこの世で生きている間の産みの苦しみは、むなしいものではなく、神が働いて、地に救いをもたらすためのささやかな働きとなったこと、世界に神の民を増やすための働きとなったことを知るのです。

 

全ての天に召されたキリスト者、お一人お一人が、神と共に生き、語り、苦しみ、賛美したすべてに神が働かれて、私たちの思いも及ばない形で、神から与えられたいのちの露をこの世界の全き平和のために輝かせているのです。

主はその命を愛し、喜んでおられるのです。

(小室 真)