イザヤ書 35章



34章は「神による最終審判」、続く35章が「神による回復」。合わせて一対になっています。「神による最終審判」では、神の審判が語られ、救いの預言が必ず成就することが語られていました。今日、後半は、神による回復、人の最終的な未来の預言です。これも必ず成就するのです。いえ成就しています。

 

35章を3つに分けて見ていきます。

  

1-4節 神による回復 

  

4節に「神は来て、あなたがたを救われる。」と言われます。苦しみから救われる者は当然喜びますが、喜ぶのは、救われる人だけではありません。荒野や砂漠のように喜びのかけらもないと思われる所にも喜びが現れます。神に造られた全てのものが、神が来られて神の威光が現れることを喜ぶのです。

パウロはローマ書8章19-21節でこう語ります。

「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。

 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。

 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。」

 

神が来ても、実際には多くの人々の目には見えず、人々は心を騒がせてばかりいます。そこで神は、3節で「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。」と勇気づけるのです。パウロはへブル書12章で苦難の中にいるキリスト者に向けて、必ず平安の実が得られるからと、このイザヤ書35章3節のことばを引用して勇気づけています。へブル書12章10-12節です。

 

 「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

 ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。」

 

5-7節 それでも不安な私たちに、神が来られる時の証拠をイザヤは教えています。

  

神が来られたとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられ、足の萎えた者は飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。そんな奇跡を見ることになるのです。

バプテスマのヨハネはヘロデ王に捕らわれた時、イエス様が本当に神の子なのか疑い出してしまいました。そこで自分の弟子をイエス様のもとに送りました。ルカ7章22-23節。イエス様はヨハネの弟子に言われました。「自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」

実際にイエス様は、5-6節にあるように、目の見えない者の目を開き、耳の聞こえない者の耳を聞けるようにし、足の萎えた者が飛び跳ねるようになり、口のきけない者が主を褒めたたえました。どれも今まで見たことがないような奇跡です。

 

水が湧き出した荒野、川が流れるようになった荒れ地とは、干からびた人々の心に、神の愛がながれ、潤いが与えられたことを言います。サマリヤの女の心に泉がわき、永遠のいのちの水が流れ出したことが思い起こされます。ヨハネは、イエス様のことばから、神が来た時に起こることが書かれたイザヤ書35章に思い至って、神の子がこの地に来られたという確信を取り戻したのです。

 

8-10節に、神の救いの様子が描かれます。

  

ここには、神の元、シオンに通じる道が示されます。汚れた者は通ることのできない「聖なる道」です。では、どんな人が通ることが出来るのでしょうか。10節にあるように「主に贖われた者達」です。詩篇84篇5-6節には、「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。」とあります。この大路は心の中に与えられるものですが、その道は、高くなっていて獅子や猛獣に襲われることがありません。愚か者に邪魔されることもありません。主に贖われて、その道を行く間、私たちは安心して、希望をもって喜んで歩むことが出来ます。イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)この大路はイエス・キリストそのものです。

 

35章10節。人が「主に贖われる」ということばは、イザヤ書40章以降で、さらに詳しい預言へと橋渡しされているのです。

(小室 真)