イザヤ書 41章



1-20節

40章では、BC537年に起こるバビロン捕囚からの解放とそれに重なる主の救いの預言。救い主が来られる約束が、良い知らせを伝える者の声として、イスラエルの民に告げられていました。41章からはその声が世界に向けて広がっていきます。

 

 

1-4節:世界に向けた預言~イスラエルを救う者を送る主

 

 

「島々よ」、「諸国の民よ」と神が呼びかける相手は、アッシリヤやバビロンなどの強国に支配されて苦しみ嘆いている異邦の民のことです。神は弱っている者たちに「新しく力を得よ」と励まして、支配者たちを訴える裁きの座に共に集うように促します。「新しい力」は、40章でイスラエルの民に与えると言われた力と同じです。東から起こされる一人の人とは、ペルシヤのキュロス王のこと。ペルシヤはバビロンの東にありました。キュロス王は、支配者バビロンを圧倒的な戦力と知略で滅ぼします。キュロスはバビロンに征服された諸民族を開放して寛大に扱いました。この王を立て、この戦いを勝たせていくのはイスラエルの神なのです。「わたしは初めであり、また終わりとともにある。」とは、神が、すべての歴史の起因となり、その結果に責任を持たれるという宣言です。

 

5-7節:神に抵抗する者たち

 

 

神の力を得るようにと呼び掛けたのに、諸国の民は、キュロスの出現を恐れて、偶像に頼ろうとします。互いに助け合って偶像を作るのです。鋳物を作った職人は次を金細工人に任せ、金槌で製品を打つ職人は金床の準備をせかし、はんだ付けでくっつけた偶像を壁に釘で打ち付けて固定する。連携して働きますが、自分の手元を見るばかりで、イスラエルの神には目を向けようとしません。

 

8-20節:イスラエルを助ける神

 

 

イザヤは、地の隅々に散らばったイスラエルの民だけをイスラエルと呼んだのではありません。世界中の虐げられた者たちに呼びかけています。パウロは、ローマ人への手紙4章16節で言います。「すべては信仰によるのです。・・約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。」

 

イスラエルの神を信じる者たちに対して神は「あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。」と呼ばわれます。

 

素晴らしい方に、「わたしの友」と呼ばれたら、とても名誉に感じます。それが、天地を造られた神から呼ばれると言うことは筆舌に尽くしがたい喜びです。名誉なだけではありません。力の強い方が友なのですから、敵対する者も手出しができません。不心得者がいて、万が一手を出しても、神が義の右手で守ると言われるのです。「義の右の手」とは、神の権威の力を表わします。神の権威を越えて手を出すことが出来る者はいないのです。何の価値もない虫けらのようなものなのに、恵みによってアブラハムの裔とされた私たちを神はアブラハムと同等に扱われるのです。神はこう宣言します。

10節「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

(小室 真)

21-42章4節

バビロン捕囚からイスラエルの民を解放する約束、それに重なる救い主を送るという約束をイザヤは告げていました。虐げられている者を救うという知らせは、イスラエルの民だけでなく世界に向けて広がり、信じる者を力づけていました。そして、神は「良い知らせを伝える者」を立てようとなさるのです。

 

21-24節:異邦人が信頼する神々のむなしさについて

 

 

「あなたがた」とは、異邦人たちが頼りとしている神々です。苦難の中にある人々のために、その神々が何をどのようにするのか事前に示すように求めます。たとえそれが悪いことであっても、予告してそれを果たせば、あなたがたを神々と認めよう。とイスラエルの神は言われます。でも、それが出来るのはイスラエルの神以外にはいないのです。異邦人が頼りとしている神々は無に等しく、その行いは空しいのです。世の中ではおみくじや占いに心を寄せますが、イスラエルの神から見れば、その行為は空しく忌まわしいものなのです。その神々は何かをなそうとすることもなく、実際になにも行わないのです。人間にとっての本当の平安と喜びを与えることが出来るのは、神の思いを受けた「良い知らせを伝える方」しかいないのです。

 

25-29節:「良い知らせを伝える者」を与える神

 

 

北から来る人とは、ペルシヤの王、クロスです。ペルシヤはバビロンの東の国です。バビロンから見て日の登るところです。クロス王は、バビロンの北側から侵入して瞬く間にこれを滅ぼしました。更にバビロンの奴隷だった多くの民族を開放しました。特にイスラエルの民には、エルサレムに帰って神殿を再建することを許し、そのための資金まで与えたのです。他の神々に、この出来事を事前に予言した神々がいたのかと神は問いかけます。そんな預言を告げ、聞かせた者、その預言を聞いた者は一人もいませんでした。ただお一人、イスラエルの神だけがイザヤを通して約150年も前から預言しているのです。

 

42章1-4節:良い知らせを伝える者の姿

 

 

良い知らせを伝える者の姿を、神は具体的に預言します。クロス王は神によって立てられ、今のトルコからイラン迄広大な地域を治めました。これらの国を支配した王は、叫ぶことも争うことも必要ありません。ただ威厳をもって命じるのです。王が命じたのは、弱く希望を失っていた奴隷たちに自由を与えることでした。クロス王が残した円筒印章が大英博物館に保管されています。ここには、クロス王がバビロンを征服して奴隷を開放した経緯がかかれていて、「世界史上最古の人権宣言」だと評価されています。

 

良い知らせを伝える者の姿は、クロス王だと言えるのですが、私たちにとってはそのままイエス様を思わされる記述なのです。

1節:「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」とあります。

イエス様がヨハネからバプテスマを受けると神の御霊がイエス様の上に下り、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と神の声がありました。(マタイ1:16、17)

 

2節:彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。とあります。

イエス様が裁判にかけられた時、祭司長たちの訴えに一言も答えず、総督ピラトが驚くほどでした。(マタイ27:13、14)人生の重大な局面で、叫ばず、言い争わなかったのです。

 

また、イエス様が、病の人々を癒された時、ご自分のことを人々に知らせないように彼らを厳しく戒めておられました。(マタイ12:15、16)「通りでその声を聞かせない」というお姿です。

 

3節:傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。

「葦」とはまっすぐに⽴つことから、法則や原理、基準を表す⾔葉で、聖書の「正典」のことを意味します。「灯芯」も神のみことば、律法のことです。イエス様は、弱く貧しく神のことばを守れない者たちの上に神の愛が回復するように優しく働きかけられます。マタイ5、6章の山上の垂訓を通して神の真意を教えられました。

 

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」と主は教えられました。

また、イエス様は打ちひしがれた姦淫の女を前に、「わたしはあなたに裁きを下さない。これからは決して罪を犯してはなりません」と言われました。このように裁かれたのです。

 

4節:衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。イエス様はこう言われました。「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(マタイ5:17)イエス様が成就して確立されるのは神の恵みが満ち溢れる世界です。世界中の虐げられている人々がこの教えと支配を待ち望んでいるのです。

(小室 真)