64章で、イスラエルの民が、神に逆らい、さまよっているけれど、神はご自分の民を父のような熱心で救おうとされている。それを知って、イザヤは今苦しんでいるイスラエルの民を救ってくださいと訴えました。神の答え、65章1-16節です。
1節: 主を探さずに見出だす民
「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。」いったい誰のこと、何のことを言っているのでしょう。神を尋ね求め、探しているのはイスラエルの民。尋ね探さなかった者は真の神を知らず、神の民ではない異邦人です。「神を探さなかった者たちに、神が見出された。」神が「わたしはここだ」と語りかけるとは、福音のことです。その神の救いを知って異邦人が救われることを言っています。
パウロは、この節が、異邦人に神の救いを伝えること、福音のことだと知りました。パウロはローマ書10章で、神が福音を促す理由としてこの節を引用しています。
さらに、イエス様が天に上られる直前に語られたことば、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章8節)1節の預言は、この異邦人への福音を促すことばとして響き合っています。
2-10節には、手を差し伸べる神に逆らい続けるイスラエルの民の姿が書かれています。
イスラエルの民は、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたく異教の儀式に浸り、神が嫌うことを好んで行っています。だから神は、「必ず報いる。」と言われるのですが、それでも神はぶどうの房の中に甘い汁を見いだすように、「イスラエルの中に祝福があるから」と良いものを期待して、全てを損なうことを避けようとするのです。
パウロもここでイスラエルの残りの者に対する神の熱い思いを感じています。
ローマ11:1「神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。」と言い切っています。パウロはイスラエルの民を救おうとする神を見つめています。
11-16節:主を捨てるイスラエルの民への報い
13-14節に、「わたしのしもべたち」と「おまえたち」とで、受けるものが違うと神は言います。「わたしのしもべ」とは、福音を受け入れた者、「おまえたち」とはイスラエルです。前者は豊かに食し、後者は飢える。前者は飲み、後者は渇く。前者は喜び、後者は泣き叫ぶ。神はこのようにして異邦人を祝福して、イスラエルの妬みを起こそうとされているのです。
これはモーセが申命記で預言していたことでした。申命記32章21節「わたしも、民でない者たちで彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で彼らの怒りを燃えさせる。」わたしとは神のこと。民でない者、愚かな国民とは異邦人のこと。彼らはイスラエルのことです。神はイスラエルの民が異邦人のことをねたんで神の祝福を強く求めるようにさせると預言しているのです。
1節の表現もイスラエルの民の妬みを引き起こそうという神の気持ちが垣間見える気がします。
それで、パウロはローマ11章11、12節でこう説明しています。「彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。」
イスラエルの背きや失敗が、異邦人の富となるのなら、イスラエルの背きが赦され、イスラエルが成功することは、世界にとって、ものすごい祝福になるはずだとパウロは言っているのです。
3-14節まで、イスラエルに対する神の厳しい姿勢が書かれていますが、その背後にこのような祝福が隠されていることをパウロはイエス様の霊によって知ったのです。
15節「自分のしもべたちをほかの名で呼ぶ。」これは、神の民を「イスラエルの民」ではなく「キリスト者」と呼ぶことを言っています。この民キリスト者は真の神から祝福を受け、苦難から救い出されるのです。
(小室 真)
65章後半。神に祝福される者たちを待ち受ける祝福の世界を味わいましょう。
17節:新しい天と地の創造
「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」
神は、まったく新しい秩序を民に与えようとされます。かつて創造されたものが破棄されて地の形や生き物の姿まで変わるわけではないようです。新しい秩序の刷新です。その具体的な内容が語られていきます。先のことというのは、かつての労苦、困難、悲しみのことです。この悲しみと痛みが回復した時、もう昔のことは心に上ることはありません。
18-19節:新しい世界の神の喜び
新しい世界には喜び楽しむことがたくさん用意されています。現在の世界でも神の創造されたものを見ること、体験すること、感じることは人間の喜びです。四季折々の自然の姿、神が造りだす絶景、満天の星々、高い山々、海のサンゴ礁、虹やオーロラ。そこに生きるいろいろな種類の動植物。山登りやスキー、スキューバダイビング。それらを見ること、体感すること、研究することは人の楽しみです。神は新しい世界を多くのもので満たし、私たちが喜ぶ機会を与えてくれるのです。神は、それをいつまでも喜び楽しめと言われます。そのように楽しむ民を見て、神は喜ばれるのです。この喜びは神が世界を創造された時から変わっていません。
20-23節:新しい人の寿命
この新しい世界には、人の長寿が約束されています。木の寿命と比較される程です。木の種類によってその寿命は異なりますが、ケヤキで千年、屋久杉で三千年、アメリカヤマナラシの群生は八万年と言われます。
「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」とあるので、そのまま読めば、死はあるように書かれています。
新しい世界について語ったイザヤ書25章8節では「永久に死を飲み込まれる」また、26章19節では「あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。」と言われていたことと異なるようにも思えます。
ここで伝えたいことは、命も衣食住も他人に奪われることなく守られて、何代もの子孫に渡ってともに住むことが出来るということです。自分達の労した実を、損なうことなく楽しむことができるという約束です。
24節:新しい神と人の関係
人の心が神とつねに交わっている、ということです。神が友として身近におられることを人が意識できる状態です。屋根の上のバイオリン弾きの主人公ユダヤ人テヴィエは、ことあるごとに天の父に話しかけます。自分の馬の蹄鉄が外れて苦労していることや、娘の結婚相手が気に入らないことなど、何でもかんでも天を見上げて神様に語りかけます。これだけでもテヴィエの心は慰められましたが、新しい世界では、神がより身近に感じることが出来るというのです。神の一人子イエス様は、インマヌエル「神が私たちとともにおられる」という名前の方であって、実際に死からよみがえって現在も生きておられて私たちに語りかけてくれます。祈る時、イエス様の名前によって直接神に祈りなさいと言われました。私たちの祈りは、人を介さず、そのまま神に届くのです。
25節:新しい被造物の世界
以前イザヤ書で同じ世界が示されてきました。イザヤ11章6-9節です。
この新しい天と地は、私たちに害を及ぼすものがない世界です。神の下に守られて、さらに神を知り、神の造られた世界を知る喜びと楽しみが溢れる世界なのです。イエス様がこの世に来られてから預言されているように新しい天新しい地の祝福が広がっているのです。
(小室 真)
