4章1節まで、終わりの日に、人が心の支え・頼みにしているものをエルサレムとユダから、取り除かれることが語られてきました。その過程で、気まぐれで力のない者が国を治め、彼らは貧しい者からかすめ取り、抑圧していく。社会秩序が乱れていく、その様子が預言されていました。
同じ「終わりの日」に、神の栄光と守りの中に置かれる人々がいました。その姿が2-6節に書かれています。
2節の「主の若枝」ということばは、「地の果実」ということばと対になっています。荒廃したイスラエルの中から芽生える者。神に立ち返る、初めの者たち、いきいきとした者たちを表しています。それは、うるわしく、豊かに成長して茂り、主からの誇りと輝きが与えられるのです。
3節。シオンに残された者、エルサレムに残った者とは、終わりの日の苦難の中にあっても主に信頼して生きていく者たちのことです。「聖なる者」とは、神にささげられることをいいます。ローマ人の手紙12章1節で「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」と言われていたことが思い出されます。
4節にある、「シオンの娘たちの汚れ」、また「エルサレムの血」とは、3章に繰り返し書かれていた内容です。神に逆らい、貧しい者、幼子ややもめを不当に扱い、不正を行ってきたイスラエルの罪です。これまで、イスラエルの民は、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を神殿にささげることできよめられてきました。こうやって、律法に従ってきたのです。ところが、終わりの日には、主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によってきよめるというのです。律法の重大な変更です。
へブル人への手紙10章が、このことを分かりやすく説明しています。10章8~10節で、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を神が望まれていないことを教え、イエス様が神のみこころを行うために地上に来られたこと、つまり、初めの全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を廃止するために、ご自分が完全なきよめのささげものとなられること。そのために地上に来られたことが書かれています。その結果、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」というのです。
同じく4節の、「さばきの霊と焼き尽くす霊」については、マタイ3章11節で「・・・その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」と、イエス様についてバプテスマのヨハネが証しています。ですから、4節の「さばきの霊と焼き尽くす霊」とはイエス様のお働きのことを言っているのです。
イザヤ書4章を読んでいると、新約聖書を読んでいるような感覚になってきます。旧約聖書だけでは意味の分からないことが、新約聖書で明らかにされていく感覚です。旧約聖書と新約聖書が一体となって神の思いを伝えているように感じさせてくれます。
神が荒野を行くイスラエルの民を守られたように、終わりの日を生きる私たちキリスト者も、神の雲の柱と火の柱に守られて進むのです。モーセに導かれて荒野を進んだイスラエルの民は、神の守りを、目で見、耳で聞き、肌で感じていたでしょう。
終わりの時を生きる私たちは、この神の存在と神の守りを、心の目で見、心の耳で聞き、心の肌で感じて生きるのです。
(小室 真)