イザヤは南ユダのウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4人の王の時代約60年に渡って預言者として働きました。この4人の王が治めていた間に神から与えられえた預言をイザヤは1章に総括しています。ただし、イザヤの預言は、この時代だけに与えられたのではなく、後の世に向けても語られていて、今も生きていることを覚えておきましょう。
1章を、4つの部分に分けてみますと
(1)2-9節:イスラエルが神に背いてきた姿
(2)10-15節:南ユダが神に背いている姿
(3)16-20節:指導者と民に、神が求めていること
(4)21-31節:民に向き合う神の姿
前半の15節まで見ていきます。
最初の部分は、2-9節。イスラエルが神に背いてきた姿です。イスラエルの指導者と民は、自分の神、聖なる方を侮ってきました。特に北イスラエルは、神の神殿が南ユダのエルサレムにあったので、王たちは民にイスラエルの神を捨てさせ、異教のバアルを崇むようになっていきました。その結果、隣国のアッシリアに攻められ、主の守りを得られないまま、イスラエルの民は病み、傷つき、町は火で焼かれ、荒れ果てました。ついに北イスラエルは滅びたのです。
4節の「イスラエルは、背を向けて離れ去った。」や、5節の「反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。」6節の「油で和らげても、もらえない。」こういう言葉の端はしにイスラエルの姿を悲しみ、嘆いている神の姿があります。放蕩息子を思う父親の姿が重なってきます。
創世記で、ソドムやゴモラが全て滅ぼされたのとは違って、イスラエルには、南ユダ・エルサレムが残されました。神の恵みで僅かに残されたのでした。ただし、周囲の外敵から攻められながら、何とか生き残っている状態です。8節に、「ぶどう畑の小屋」、「きゅうり畑の番小屋」と、今にも倒れそうな掘っ立て小屋のようだとエルサレムを形容しています。
次は、10-15節。何とか生き残っている南ユダ・エルサレムの指導者と民の姿が神にどのように映っていたか書かれています。律法を守り、神殿に捧げものを携えて来るけれど、神に従ってはいない、と主は言われます。捧げものを多く持ってくることで自分を誇り、その姿は横柄で、神の神聖な庭に足を踏みいれ、荒らしてもお構いなしです。そこに神を慕う思いは見られません。『新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。』『あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。』 と神は嘆きます。ここでは、儀式や律法を守ることを否定しているのではありません。神を愛し、神の前にへりくだって、自分の罪を悔い改めることを、神は最初に、求めておられるのです。そうでなければ、どんなささげものもむなしいのです。神は目をそらし、祈りに耳を傾けることはないのです。
イスラエルの民は、イザヤ書のことばに触れても、神の気持ちを理解することが出来ませんでした。心はどうであろうと、律法を守ることこそ大事。儀式と律法を守ってこそイスラエルの民だ。時代が遡ってイエス様の時代のイスラエルの民も、そう考えていました。イザヤ書の厳しいことばは、イザヤの時代の人々の問題としか映っていなかったのです。
イエス様が、エルサレムに入られた時、神殿の庭は、いけにえの牛や羊の売り買い、献金の両替で商売している人たちでごった返していました。イエス様は彼らを神殿から追い出しました。マルコ11章16-17節です。「また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。神殿の庭のことです。そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
次に、イエス様は、神殿の献金箱の向かいに座って、人々がお金を投げ入れる様子を見ていました。マルコ12章41節です。皆がたくさんの献金を箱に投げ入れる傍らで、とても少額のレプタ銅貨2枚を投げ入れたやもめがいました。イエス様は言います。「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを、投げ入れたのですから。」このやもめは、誰よりも神への信頼と感謝を込めて献金していたのです。この女性には何か特別な思いがあったのでしょう。その姿をイエス様は見過ごされませんでした。
また、イエス様は安息日に片手のなえた人を癒そうとしました。マルコ3章4-5節です。安息日には働いてはいけない。人を癒すこともその一つだ、と律法学者たちは主張していました。彼らの目の前でイエス様は言われました。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていました。イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われました。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになったのです。
イザヤが指摘した、神の御心に従わないイスラエルの民の姿は、イエス様の時代までも延々と続いていました。イザヤを通して語られていた、神が喜ばれる生き方を、イスラエルの民は初めてイエス様の行動の中に見、語られる言葉の中に聞きました。神の権威をイエス様の中に見たのです。一方、祭司と律法学者たちは、自分たちの悪を指摘され、怒りを覚え、それが見えませんでした。イエス様を殺す相談が始まります。
今の時代にあっても、神の御心にかなった生き方をしているか、私たちは問われています。主の祈りをこころから祈っているか、礼拝への参加が惰性からか心から求めているか、感謝をもって献金しているか。私たちは問われています。
( 小室 真 )
イザヤ書1章の前半で、背くイスラエルの姿を、神は悲しみと共に語っていました。前半最後には、「あなたがたの手は血まみれだ。」と指摘しています。血まみれの者たちはどうしたらよいか、1章後半で教えられます。
16-20節:まず、手を洗い、身を清めて、悪い行いを止めることです。さらに17節で、「善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ」と神は呼びかけます。
「みなしご」と「やもめ」は、体力的に、知力的に、経済的に、社会的に、弱い人の代表です。弱い立場の人を支配しようとか、食い物にしようとか、その存在を無視しようとすることは悪の根っこです。あまり気づきませんが人は皆これを持っています。弱いとされる人でさえそうです。自分より弱い人を前にすると、何の遠慮もなく自分を主張し人を押さえつけることが多いのではないでしょうか。多くの悪しき行ないはここから生まれます。奴隷制も差別もいじめもハラスメントもここから来ています。みなしごを正しくさばき、やもめを弁護する生き方、弱い立場の人を平等に扱い、弱い人の状況に配慮する生き方を、神は重要なものとして人に求めています。
そのうえで神は、「さあ、来たれ。論じ合おう。」と言うのです。
手が血まみれの者。明らかな罪人は、本来であれば神の前に出ることなどできません。しかし神はまず手を洗って、私の所に来なさい。とその機会を作ってくれるのです。
「来たれ。」は、宮に来るという意味では、なく、神に心を開く。というニュアンスです。罪を犯してしまったら、神から逃げて、隠れようとするのが、当たり前だと思います。神の前に来ることは、敷居が高いのです。神もそれをご存じです。そこで、ご自分から人の所まで来られて、「わたしに心を開きなさい。わたしに言ってごらん。」とやさしく呼び掛けておられるのです。それが「さあ、来たれ」という呼びかけです。
罪を犯したことは、はっきりしています。誰が何と言っても「有罪」です。論じ合う余地などないのです。ところが、神は、「論じ合おう。お前の言い分を聞こう」と言われるのです。しかも、その対話を通して、神に立ち返る者には、今までの罪を消し去ろう。とまで言われるのです。
赤い色というのは、目立つ色です。遠くからでもすぐ見つけられます。隠すことのできない色です。神の目に赤く目立つその罪は隠しようがありません。ところが、その緋のような色を雪のように白くしてしまう。どこにも見当たらなくする。神はそれほどきれいに私たちの罪を取り除くことが出来るお方です。
過去の罪を取り除いて下さるだけではありません。神ご自身が、罪の根となる私たちの悪しき部分を取り除き、かさぶたに油を塗り、血が流れている傷を癒して、義なる者、忠実な者に変えて下さる。素晴らしい恵みです。
ところが、その恵みを拒んで背くなら、罪は赤いまま消されず、破滅してしまうのです。人が神に背くことを、神は計画されていませんし意図してもおられません。29節で「あなたがたが慕った樫の木」「あなたがたの自ら選んだ園」と書かれているように、その人が、神に替えて樫の木や園を選ぶことを神は許されています。その結果が、しおれた樫の木であり、水のない園になることを教え、神を選ぶようにと促しておられるのです。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と言われる、神の恵み深い姿は、創世記に見ることが出来ます。
エデンの園でアダムとエバがサタンの誘惑に負けて、食べてはいけないと言われていた園の中央の木の実を食べたとき、神は二人を探して園を歩き回り、呼びかけました。そして、二人の言い訳に耳を傾けました。結局、二人をエデンの園に置くことは出来なくなりましたが、皮の衣を作って、着せて、送り出したのです。神ご自身が来られて、二人を迎え入れ、解決の道を整えてくれたのでした。
人から隠れるようにして水を汲みに来たサマリヤの女にイエス様は、語り掛け、彼女の人生の労苦を認めました。裁くことはありませんでした。すると不思議なことに、彼女の心に光が射して、自分から人々に福音を伝える者になりました。
また、皆に嫌われていた取税人ザアカイの所にも、イエス様は自ら来られました。『「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」と言われました。イエス様にみんなの前で、突然名前を呼んでいただき、さらに自分の所に来てくれるというのです。イエス様に受け入れられたことで、何も言われないのに、ザアカイは「私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と宣言しました。不思議なことに主に忠実な人に変わってしまいました。イエス様も立場の弱い人の所にご自分から行って、語り合い、主の恵みに導き入れたのです。
身を清め、主のもとに出て、祈りを通して主に語り続け、主のことばを喜んで聞こうとするなら、今までに犯してきた緋のように赤い罪を、雪のように白くされ、さらに神に忠実な者、義なる者に変えて下さるのです。それが、神が私たちに備えて下さっている道です。
創世記の神の姿もイエス様の姿も一貫して同じ恵みに満ち溢れています。イザヤ書1章の預言は、神の御心を示しています。イエス様が来られたとき、イエス様が神の御心の通りに行われ、語られていることが分かるようになるのです。
( 小室 真 )
