イザヤ書40-48章は、バビロンの奴隷となっているイスラエルの民と多くの民がクロス王によって救い出されるという救いの預言です。43、44章ではイスラエルの民にその救いを伝え、45章では、全ての者に向けて、キリストが来られることを明らかにしました。46章では、「わたしに聞け」と神は語り続けます。
46章の構成です。
1-2:家畜に背負われる偶像、それに対して 3-4:人を背負う主
5-7:言葉もなく動きもない偶像、それに対して 8-11:告げ成し遂げる主
最後に、12-13:「わたしに聞け」という神の呼びかけです。
偶像と本当の神を比べて、本当の神に聞きなさいと教えています。分かりやすい構成です。
1節の偶像の代表ベルはバビロンで神とされていたマルドゥクのことです。ネボはベルの息子です。バビロンがペルシアに征服されると、バビロンの人々はベルやネボの像を家畜に乗せて逃げることになるとイザヤは預言していました。大きくて重い偶像に、牛やラクダは疲れはて、座り込んでしまう。遂には、追手に捕まってしまう。このように偶像は人の足かせ、お荷物になるのです。
一方で神である主は、生まれる前から人を形造り、成長するときも共にいて、老人になっても見捨てることなく、背負い続けて下さる。人は自分の足で歩いているつもりでも、実際には神が手を引き、助け、背負っている。私達の一生は神に背負われた一生なのです。この4節で神は、「わたしは、」と4回も繰り返しています。
『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。』
人の人生に対する、神の力強い存在と関わり合いを示しています。
5-7節でまた、偶像の姿が語られます。人は偶像を拝みますが、安置されたところに立ったまま動きません。人が話しかけても語ることはありません。人が苦しもうが何をしようがこの偶像が人を救ったり、関わることはないのです。
ところが苦しみの中にいる者は、頼りにならないことが分かっているのに、偶像から離れようとしません。かえって不幸の原因なのに、手放したら、頼る者を失なって、更に落ちてしまうと思いこんでいるのです。
神は、今まで告げてきたすべてのことを思い出すよう促します。世界の初めからおられた神は、人間をこの世界に創造して、祝福し、「それは非常に良かった。」と言われたのです。あなたはそうやって生まれた一人の人なのです。
神は「遠い大昔のことを思い出せ。」と言われます。アブラハムもイサクもヤコブも苦しみの中で神を信頼し、神に救われた人生を歩みました。ダビデやソロモンも神に救われ栄えを受けました。
だから、「わたしはそうしてきたのだ」と神は言われるのです。また、イザヤ書を通して、全ての人がキリストによって救われることを伝えてきました。救いのためには、キリストの十字架とよみがえりは大前提です。そこで『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言われるのです。神が望むことの中心はキリストのよみがえりです。
12節。改めて、頑なになっている者。主から離れている者に向けて、神は「わたしに聞け」と声を掛けます。自分が神に背負われていることに気づいて、偶像を手放すのは、神の声を聞くことで始まるのです。
今は、頑なであっても、神はその人が胎内にいたときから形造り、日々の生活も共にいて、年をとっても、背負われるというのです。そのことばを受け入れる者は神の背中に自分の身を委ね安心して過ごします。かたくなな者は神の背中にいながら駄々をこね、暴れているのです。不自然な姿勢になって疲れ、自分の叫び声で神の慰めの声をかき消し、優しい声には、耳をふさいでいる。
神は言います。「あなたの意識は遠く離れているが、私は遠くはない。救いが遅れることはない。」神はご自分の背中に背負っているのですから、確信をもって語られるのです。神を信頼して委ねることで、苦しみから救われ、神の平安が訪れるのです。
(小室 真)
