58章では神の好まれる断食、望まれる安息日について教えていました。59章では、咎を負い、背く人々の現実を見て、それでも救おうとされる神の心を語ります。
流れに沿って見ていきましょう。
1-2節:イスラエルの民と神の間に仕切りとなる咎があるのです。
人と神の間に、人の咎が仕切りとなって塞いでいます。自分の咎のために、人は本当に救ってくれる方を見いだせず、叫ぶべき相手を見失っているのです。
3-8節:イスラエルの民の咎
神との間を仕切る咎について具体的に示しています。暴行を行い、血で汚れた「手」、偽りを語る「口」、悪の為に走る「足」、邪悪なことや不正なことでいっぱいな「思い」。これが神と人とを仕切る咎です。
9-15節:人の咎の深みに触れています
この咎によって、人は光を望んでも闇に覆われ、待ち望んでいる救いを見出すことが出来ません。それは、人が咎を重ねるたびに、公正からも義からも自分達が遠く離れてしまうからです。12節にドキッとするようなことが書かれています。
「私たちは自分の咎を知っている。」私達とはイスラエルの民のことです。彼らは咎の本質を知っていました。それは13節に書かれていることです。
「私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめた・・・」彼らは、イスラエルの神を知っていながら神に送られた預言者のことばを、自分に都合が悪いといって、受け入れなかったのです。
16-20節:取りなす者の出現
この民の状況に心を痛められた神は、民の咎を取りなす者を探しましたが、適任者がいません。「神が驚いた」と書かれているのは、最適な人がいないのではなく、これらの咎を取りなすこと自体、人間には到底出来ないことだと心を痛めたのです。そこで神はご自分の御手、ご自分の義によって民を救おうとされるのです。ご自分の御手、ご自分の義とは、イエス・キリストのことです。パウロがエペソ6章13節以下で語っているように「義のよろい」「救いのかぶと」は神の武具です。「ねたみ」は神の特徴、「復讐」は神の権限です。これらから17~20節が神の一人子キリストを示していることが分かります。イエス・キリストが来られることで、イスラエルの民にも異邦人の民にも神の救いが示されるのです。19節の「主の息が吹きまくっている。」と全世界に聖霊が来られることが預言されています。救いの対象は全世界なのですが、取りなす方はシオンであるエルサレムに、イスラエルの民の所に来られると言うのです。
21節:主の契約
神の結論です。「彼ら」というのは、イスラエルの民だけではありません。19節で「西のほうでは、主の御名が、日の上るほう・・つまり東の方では、主の栄光が恐れられる。」神がおそれられ、主の栄光が現われる所は神の救いがあるところです。神は、世界中の人々と契約を結ぶのです。その契約は、「わたしの霊とわたしのことばは、今よりとこしえに彼らとその子孫たちから離れない」という一方的なものです。
イエス様がこの契約のことを最後の晩餐の席で教えています。ヨハネの福音書14章16節です。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」もう一人の助け主は聖霊です。イエス・キリストに求めることで私たちの上に現れる祝福、助け主である聖霊の到来が、2700年前のイザヤの預言の中に神の契約として約束されていたのです。
(小室 真)