イザヤ書 43章



1-13節

41、42章では、神が、ペルシヤ王クロスを立て、バビロンの奴隷となっているイスラエルの民と多くの民族を救うと、世界に向けて事前に語られました。43章では、イスラエルの民を救おうとされる、神の気持ちが語られています。

 

43章1節~13節です。

 

1―7節: 神の目にうつるイスラエル

 

聖書は、「わたしとあなた」が語られている書ですが、ここでは特に「わたしとあなた」が重ね

て語られています。抜き出してみましょう。

わたしがあなたを贖った。

わたしはあなたの名を呼んだ。

あなたは、わたしのもの。

わたしは、あなたとともにいる。

わたしはあなたの神、あなたの救い主。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。

わたしはあなたを愛している。

わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。

  神の思いがあふれています。

 

ヤコブは、イサクの息子です。そしてアブラハムの孫です。そのアブラハムは75歳の時、神から名を呼ばれて住み慣れたハランからカナンの土地を目指しました。ハランは現在のトルコのシリア国境近くの町です。神を信頼して見ず知らずの土地に入り、多くの困難の中で祝福された人生を歩いたアブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。年老いても子供がいないことを憂いたアブラハムを、神は満天の星のもとに連れ出して、星を数えさせました。そして「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。そして、イサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれました。ヤコブはアブラハムの神から祝福を得ようと神の人と格闘して、手を放しませんでした。その時にイスラエルと言う名前を与えられ、祝福を受けたのです。今や血筋によるイスラエル人は、1700万人。自他ともに認めるアブラハムの子孫です。

 

また、アブラハムの血筋ではない者であっても、アブラハムの信仰にならってイスラエルの神を信じる者、神が送られた救い主キリストを信じる者は「わたしの名で呼ばれる者」です。現在24億人、世界人口の30%、日本では約1%と言われています。

 

7節:わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。

とあります。これはあなたのことです。神は語りかけます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

あなたが神を選んで、自分の神としているのではありません。神があなたを造られ、名前を呼んで、ご自分の宝とされる。大切にして愛して下さるのです。

 

8-13節  : イスラエルの役割

 

 

8節、9節の「目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たち、諸国の民」とは、バビロン捕囚の解放を、イスラエルの神が計画して成就したとは認めない人たちのことです。神はその人たちを集め、その前でイスラエルの民に証しするように求めています。

 

例えばこのような証です。

「あなた方も私達もイスラエルの神が救い出したのです。この方こそ神です。」

又は

「約150年前、イスラエルの民がバビロンに捕囚になるずっと前から、クロス王によって奴隷達を開放すると約束した神、そして実行した神はイスラエルの神しかいないのです。」と。

 

バビロンのマルドゥク神殿からクロス王の実績を記したクロスシリンダー(円筒形碑文)が発掘されました。クロス王がバビロンを征服し、奴隷を開放したことが記されていますが、マルドゥク神の命令で行ったと書かれていました。

バビロンの捕囚からの解放が、他の神々によってなされたとする声が上がることを神はご存じでした。その声は、イスラエルの民への神の愛を否定するものです。イスラエルの民にとっては、神が愛してくれていることを知る機会が奪われることになるのです。だからこの奴隷解放は、神の愛を示すための150年前からの約束だったことを証せよと命じていたのです。

 

第二歴代誌36章、また、エズラ記1章には、奴隷を開放したクロス王の言葉が記録されています。「天の神、主が、エルサレムにご自分のために宮を立てるように私を任命された。」というものです。イザヤ書で預言されていたことが実際に起こったのです。イスラエルの神がクロス王を用いて行ったのでした。そしてその出来事を当時の預言者たちは証し、記録に残しているのです。神がイスラエルの民を愛して救い出したことを証し続けているのです。

 

現代のキリスト者も、神がおられ、私たちを愛していることを伝え続けていくのです。

なぜ自分が生まれたのか、自分の一生とは何なのか、それを知ることがいかに幸せなことか伝え続けていくのです。

(小室 真)

 

14-28節

イザヤ書40-48章は、バビロンの奴隷となっているイスラエルの民を含む多くの民がクロス王によって救い出されるという救いの預言です。43章前半では、イスラエルの民を救おうとする神の気持ちが語られていました。後半では、新しい救いの宣言が語られます。

 

14~21節: 新しい救いの業を行う主

 

 

イスラエルの民を救うためにバビロンを陥落させるという宣言です。神はバビロンを滅ぼす使いとしてペルシャ王クロスを送ります。バビロンの支配者たちは、かつては戦利品を持ち込んだ、その船で逃げ出します。「カルデア」とはバビロンの民族の総称です。

バビロンで奴隷として生きているイスラエルの民は、かつて奴隷だった先祖をエジプトから救い出してくれた神の御業を語り継いでいました。それで、かすかな望みを今につないでいたのです。

18節で「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。」と神は命じます。もう昔の中に希望を探すのではなくて、今、神が計画されている新しいことを期待して待っていなさいと言います。この新しいことが、昔のことよりもはるかに優れているからです。

 

新しいこととは、「エルサレムに帰る道を荒野に作り」、「荒れ地に川の水を流し、イスラエルの民が水を飲めるように」することです。実際に、クロス王はエルサレムに帰って神殿を立て直すようイスラエルの民に命じました。(エズラ記1章1-5節)

 

クロス王によってイスラエルの民がエルサレムに上る道が整えられ、荒地となっていたエルサレムの神殿が再建されることになったのです。

 

さて、20節で「荒れ地に川を流れさせ、わたしの選んだ者に水を飲ませる」と言われていました。「水」は、渇きを癒すもの、いのちを育むもの、汚れをきよめるものです。更に「水」は神のことば、聖霊の象徴です。エルサレムの神殿を再建して神のことばが流れるようにするというのです。異教の世界で主人たちの目をはばかりながら信仰を守って来たイスラエルの民にとって、神の宮で自由に神のみことばを聞いて、いのちを与えられる。神を褒めたたえることが出来るようになるという新しいことは希望に満ちたものでした。

 

22~28節: 捕囚の民の信仰生活の回復

 

 

イスラエルの民をエルサレムの神殿に上らせるにあたって、神はイスラエルの民の信仰の状態に目を向けられます。

バビロンに捕らわれている間、イスラエルの民は神を呼び求めません。奴隷生活、異教の文化に浸っています。22節の「あなたはわたしのことで疲れ果てた。」つまり「イスラエルは神のことで疲れ果てた。」イスラエルの民は、神へのいけにえや礼拝は、困難なこととして諦め、煩わしいものとして避けていたのです。確かにバビロンに、いけにえを捧げる神殿はなく、奴隷にはお金も、時間もありません。だから神は、彼らに捧げものや儀式を強要はされません。ただ、イスラエルの民はイスラエルの神に呼び求めなかった。神を敬うことが出来ない生活を悲しむこともない。それが神の心を煩わせてきました。「自分の民は奴隷生活の中で苦しんでいるのに、なぜわたしを呼び求めないのか。」

 

突然、神は一方的に罪の赦しを宣言します。「あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」ぬぐい去るとは、全てを一拭きで取り去ることです。罪に弱く、力のないイスラエルの民を自ら選んで自分の民とした責任を神は取ろうとされるのです。

 

このことばによって、罪のためのいけにえは不要になりました。実際のユダヤ教ではいけにえを捧げることは西暦70年の神殿崩壊まで続いていました。その後、いけにえは、祈りやトーラーの学びという精神的な奉献物に変わりました。

キリスト教では、西暦30年以降になりますが、詩と賛美、みことばの朗読と祈りがいけにえになりました。神に良しとされるため、身一つで神の前に進み出て心を割いて悔い改め、25節のことばを主に思い出していただくのです。「わたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」これこそ神のなされた新しいことでした。

 

出エジプトの時の救いとは次元の異なる救いなのです。出エジプトの救いにあずかっているイスラエルの先祖も指導者たちも、いけにえによって罪を贖いましたが、行いは変わりませんでした。神は指導者たちも民もさばかないで済ますことはなかったのです。

 

イザヤ書43章はバビロンに捕囚となっているイスラエルの民に語られていますが、今の私たちにも語っています。私たちに送られた神の使いは、神の一人子イエス・キリストでした。キリストを通して、神は一方的にすべての罪をぬぐい去って下さって完全な救いを完成させられたのです。

 

23~25節で言われているように、神が家畜のいけにえ、穀物のささげ物を不要とされてから実際にそれがユダヤ教において形となったのは、イエス・キリストの十字架とよみがえりの後のことであったことから考えると、イザヤ書が預言している救い主はイエス・キリストを示していると言っていいのではないでしょうか。

(小室 真)