イザヤ書40-48章は、バビロンの奴隷となっているイスラエルの民と他の多くの民がキュロス王によって救い出されるという救いの預言です。44章では、神の贖いについて、イスラエルの民に向かって話して来ました。45章を読んで、驚愕した人がいました。・・・ペルシヤ王キュロスです。
イエス様が生きていた時代に、ヨセフスという人がいました。この人はユダヤ人の歴史家で、「ユダヤ古代誌」という本を書きました。その本の中で彼はキュロス王についてこのように記録しています。「キュロスがバビロンを陥落させた後、ユダヤ人が持っていた聖書を手にして彼は奮い立った」この時読まれたのがイザヤ書44、45章だった、というのです。
キュロス王がヘブル語を読めたかどうかは分かりません。学者に命じて聖書をペルシヤ語に訳させて聞いていたのではないかと思います。それを聞いていると突然「主は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。」ということばが耳に入ってきて、ハッとします。自分が生まれる150年前に書かれたイザヤ書に自分の名前が記されていて、更に「あなたは・・」と何回も重ねて呼びかけてくるのです。
キュロス王は、諸国を打ち破って、それを支配している自分の力を誇っていましたが、それは間違いだと知りました。歴史を支配している神がおられて、自分を戦いに勝たせ、偉大な支配者にする計画を立てていたことを信じました。この神こそ主であり、イスラエルの創造主であることを認め、従おうと心に決めたのです。奮い立ったということです。そこで、イザヤ書に書かれている通り、ユダヤ人を開放して、エルサレムの神殿を再建させました。これが、彼がユダヤ人に寛容な政策をとった理由です。
バビロンを征服した力あるキュロス王になったつもりで、45章1-14節を読みましょう。
「私は彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解く」というのは、神がキュロス王の力となって諸国とその王を降伏させるということです。ここに書かれている一つ一つがキュロス王自身の身に起こったこと、起こることでした。
当時、征服された国は、征服者に見つからないように宝を隠したようです。キュロス王はその宝を見つけ出すことが出来たのでしょう。イザヤ書を通して神は直接キュロスの名を呼んでいます。更に、神はキュロス王に「油注がれた者」という肩書を与えました。ギリシャ語では「キリスト」という肩書です。ただし「イスラエルのために、・・・あなたに肩書きを与える。」と、イスラエルの民をバビロンから救い出すためという限定つきの肩書でした。
7節で、「わたしは光を造り出し/やみを創造し、 平和をつくり/わざわいを創造する。」と言っています。ペルシヤの宗教ゾロアスター教を意識した表現です。ゾロアスター教では平和をつくる光の神と災いを作る闇の神がいると教えています。ゾロアスター教が神とする光も平和も、闇も災いもすべてイスラエルの神が支配している、わたししか神はいないのだと、こんこんと教えています。
更に8節では、「天よ、上から滴らせよ。雲よ、義を降らせよ。地よ、開け。天地が救いを実らせるように。正義をともに芽生えさせよ。」神は天も地も全ての物を創造し、それらを用いて神が良いとされる世界を造り、正義と救いを実現しようとされています。キュロス王をそのために全ての物と共に用いると言うのです。13節「このわたしが義をもって彼を奮い立たせ、彼の道をことごとく平らにする。彼がわたしの都を建て直し、わたしの捕囚の民を解放する。」と書かれている通りです。
こうして、イスラエルの民を奴隷から開放させるのですが、キュロス王が代価を払って奴隷から解放するのではなく戦いに勝って開放するのです。一方で、エジプトや、クシュと言われるエチオピアが、ペルシヤに支配させるようになることも約束しています。ペルシヤがエジプトを支配するのは、キュロス王の息子カンビュセスの時代でした。
もともとはゾロアスター教の中で育ったキュロス王でしたが、彼は聖書に書かれた自分に向けたメッセージをそのまま受け止め、神の御心に従いました。
キュロス王は特別としても、聖書はユダヤ人であれ異邦人であれ、一人一人の人間に向けて語っています。自分に向けて神が語りかけていることを受け入れ、信じた人は幸いです。
(小室 真)
45章前半では、イスラエルの民を救うようにとクロス王に直接語りかけていました。後半では、諸国の民・地の果ての全ての者に向けて語りかけます。
ここはとても複雑な構造になっています。
この短い中に「わたしは主。ほかにはいない。」と繰り返しています。4回もありました。18、21、22節です。とても重みのあることばです。
15節に「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神。」とあるように、救い主である神は、ご自分を隠しておられます。「隠している」のであって、岩陰や木陰や闇の中に「隠れている」のではありません。姿は誰にも見えています。「尋ね求め」る必要もない、誰もが見える所で、公然と正義を語り、公正を告げたと言うのです。
ゲッセマネで捕らえたイエス様に大祭司が尋問したとき、「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。」イエス様はこのように答えました。(ヨハネ18:20)
神でありながら人としてこの世に来られたイエス様は、神であることは隠されていました。でもイエス様が神殿で正義と公正を語られていたことは、イスラエル中で知られていたことでした。
パウロはイザヤ45章がイエス・キリストを示していると理解したのです。
ピリピの手紙2章6、7節でこう言います。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」
イエス様は、人の力では癒せない病いの者を憐れんでたびたび癒しました。その後、「誰にも知られないよう気をつけなさい。」と命じました。そのようにイエス様は神であることを隠されていたのです。
また、22節「わたしを仰ぎ見て救われよ。」このことばの原点は、荒れ野で毒蛇に噛まれたイスラエルの民を救うために、モーセが掲げた青銅の蛇を仰ぎ見ることで命が救われた出来事にありました。これはイエス・キリストの十字架のひな型です。十字架のキリストを仰ぎ見る者は罪が赦され救われるのです。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(Ⅰペテロ2:24)にある通りです。
「わたしは主。ほかにはいない。」このことばは、神の単純な自己主張などではありません。人が救われるには、この方法しかない。この方しかおられない。だから神は、愛を持って「わたしを仰ぎ見て救われよ」と呼びかけているのです。
この救い主は、偶像礼拝をする者たちに向かって「集まって来て、ともに近づけ。」「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」と呼びかけます。そして、最終的には、すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と認めるのです。
それでも人は2つに分かれてしまうのです。主に向かっていきり立つ者と、主を誇りとする者です。主を誇りとする者は、たとえ地の果ての者であってもイスラエルの子孫とされ義とされると、主は言われるのです。それは、あなたです。
イザヤ書は45章14節まではキュロス王の救いについて語っていましたが、15節からは明らかにイエス・キリストの預言とすべての人々の救いが隠されているのです。
(小室 真)
