イザヤ書13-23章はイスラエルの周辺の国についての宣告が書かれています。15―16章はモアブについての宣告です。
モアブは、アブラハムのおいロトの子の名前です。その子孫がモアブ人。イスラエル人と血がつながっています。彼らはイスラエルの東、死海を挟んだ高原地域に住んでいました。肥沃な農業地帯で、大麦・小麦・ぶどうの栽培、羊や山羊の牧畜が盛んでした。イスラエルが飢饉のときナオミ達はモアブに移り、モアブ人のルツを長男の嫁にしたことがルツ記に書かれています。ルツのひ孫がダビデ。更にその子孫にイエス様がおられます。
モアブは死海の東側の土地です。
15章、16章にはモアブの町の名前がたくさん出てきます。多くは今も昔と同じ名前のようです。
1節のキル、アル、2節のネボ・メディバ、ディボン、4節のヘシュボン、ヤハツ、エルアレ、5節のツォアル、16章1節のセラです。
ツォアルはソドムとゴモラの隣町でした。ロトは家族と共にソドムからツォアルに逃げました。その近い所に塩の柱という岩があります。ロトの妻が、振り返ってはいけないという神の使いの言いつけが守れず、振り返ってしまい、塩の柱になったと言われています。
16:1で「セラから荒野を経て、娘シオンの山に、使いを送れ」と言われたセラという町が、今のペトラだと言われています。
さて、15、16章のモアブへの宣告を要約すると、
15章1-9節:南ユダのヒゼキア王の時代、モアブはアッシリアにすごい勢いで攻められ、国の南端ツォアルまで追いかけられます。
16章1-4節:「かくまってくれ」とモアブは南ユダ(シオン)に助けを求めます。
4節後半-5節:使いに対する南ユダの答えです。アッシリアが滅びた後、南ユダに正しくさばく王が置かれるというものです。
6節:結局、高慢なモアブはイスラエルの神を受け入れることができません。
7-14節:相変わらず偶像ケモシュに救いを求めるモアブは遂に滅亡するのです。
この中で、モアブがかくまってくれと求め、南ユダがそれに答えたところ、16章の1~7節途中を見てみます。
・神がモアブに勧めます。「おまえ」はモアブです。
「おまえたちは、子羊をこの国の支配者に送れ。セラから荒野を経て、娘シオンの山に。
モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、巣から放り出されて、逃げ惑う鳥のようになる。」
・モアブの使いがユダに求めます。「あなた」はユダです。
「あなたは、助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。
散らされた者をかくまい、逃れて来る者を渡すな。あなたの中にモアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者から逃れる者の隠れ家となれ。
・イザヤが使いに答えます。
虐げる者が死んで破壊も終わり、踏みつける者が地から消え失せるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられる。ダビデの天幕で真実をもってそこに座すのは、さばきをし、公正を求め、速やかに義を行う者。
・神は改めてモアブの不遜な姿を確認します。「我々」は神とイザヤです。
われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりと不遜さ、その自慢話は正しくない。それゆえ、モアブはモアブ自身のために泣き叫び、すべての者が泣き叫ぶ。ただ打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。
モアブの民が滅びることを、神は深く悲しみました。
15章5節「わたしの心はモアブのために叫ぶ。」逃げる者たちに、早く逃げるように叫ばずにいられない神の姿です。そこで、神はモアブにユダに逃れるように勧め、使いを送らせるのです。
16章9節「ヘシュボンとエルアレよ、わたしはわたしの涙でお前をぬらす。」作物の収穫が出来ずモアブの民は悲しみ嘆きますが、それ以上に神は嘆き、涙を流されています。
11節「わたしの内臓はキル・へレスのために、竪琴のようにわななく。」自分のもとに身を委ねて救いを得ればいいのに、ケモシュに救いを求めて、疲れ果てるまで体を打って祈るモアブ。その姿を見て、神は体を震わせて悲しんでいます。
16章1-4節の、モアブの使いのことばは、救いを求める立場なのに、「ことを決めよ」「かくまって渡すな」「宿らせろ」「隠れ家となれ」と短く乱暴で、命令口調です。焦(あせ)りというより、横柄です。・・人に物を頼む態度か?と感じます。
対するイザヤの応えが16章4-5節です。モアブを受け入れるかどうかに、直接こたえず、「将来的にイスラエルの上に現れる、王の恵み」についてだけ語っています。アッシリアが滅びたのち、神の恵みによって、一人の王が立てられる。その王は、公正にさばき、神が良いとされることを遅れずに実行する。という預言のことばです。これは理想的な王の姿です。
迫りくる災難を前にして、イザヤは一時的な救いではなく、最終的で完全な救いを用意している神を信じなさい、自分のおごりを捨てなさいと伝えています。
実際にイザヤが預言した一人の王とは、イエス・キリストのことです。ヒゼキア王が逃れて来たモアブを受け入れるように、この王は、自分の民でない者を受け入れて下さる。そして、この方が最終的で完全な救いとなられるのです。
イザヤの時代も現代も、本当の救いはダビデの神のもとにあります。今の私たちにとって、本当の救いは、よみがえられたイエス・キリストを受け入れ、この方に救いを求めることなのです。
16章5節『一つの王座が恵みによって堅く立てられる。
ダビデの天幕で真実をもってそこに座すのは、
さばきをし、公正を求め、速やかに義を行う者。』
現実の問題に目を奪われないで、遠くを見る視線を持つことです。
神が、最終的で完全な救いを与えて下さっていること。真実と公正でさばき、速やかに神の御心を行われる・・・つまり神の愛を実現されるイエスキリストがいることに目を向けることが大切なのです。
イエス様が、いつも私たちのために働いていて下さっていることを信じながら、問題に立ち向かっていくことが大切なのです。
(小室 真)
