41章で「良い知らせを伝える者」を神が立てられることが世界に向けて、語られていました。その姿は、新約聖書で語られたイエス様そのままでした。神はそのしもべイエス様に対して語り、続けて神のしもべであるイスラエルの民に語りかけます。
5-9節:良い知らせを伝えるしもべ、イエス様に語る主
1-3節に書かれた、「良い知らせを告げる方」は「叫ばず、言い争わず、傷んだ葦をおらず、くすぶる灯心を消さない・・・イエス様の姿は静かで穏やかで優しくて、腕力を振るうような方には見えません。でもこの方を立てる神は天地を創造し、人を造った神ですから最強です。その神が、イエス様の手を握り、見守り、国々の光とすると宣言されます。1-3節にある静かで穏やかで優しい方を通して、神は目の見えない人の目を見えるようにし、囚われていた者を自由にし、闇の中から引き戻されるのです。「義をもって」とは、善悪の判断のことではありません。「人間が神に愛されていると知ることによって」ということです。
9節の「初めのこと」とは、エジプトの奴隷だったイスラエルの民を救い出して自由を与えた神の御業のことでした。「新しいこと」とは、イエス様を国々の光とすること。世界中の救いとすると言うことです。更に7節の「見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。」ということです。具体的には、イエス様のひな型としてのペルシヤ王クロスによる奴隷の解放です。この奴隷は、イスラエルの民だけではありません。奴隷になっていた多くの民族が自由にされました。その350年後、イエス様が、目の見えない人、耳の聞こえない人を癒すこと。世界中の人を死の恐れから救い出して永遠のいのちを与えられるということです。
10-13節: 新しい歌
「ケダル人」とはイシュマエルの子孫アラブ人のこと、「セラ」とは死海の南80キロにあるペトラという岩の渓谷地域のことです。イスラエルにとっては敵対する者、異教の地です。この敵対する者、異教の地、地の果てまで、良い知らせを告げる方によって救いが広げられるのです。イスラエルの民だけが奴隷生活から救われるのではない。全ての人のいのちの救いなのです。だから、全世界に、新しい歌を歌えと神は呼びかけるのです。新しい歌が歌われることも神が計画する新しいことの一つです。
14-17節: 目の見えない者を捨てない主
人々が悲しみ、苦しんでいることについて、神は無関心でいられるのではありません。自分を抑えてずっと黙り、神はあえいでおられる。困難にある者たちが、目が見えず道に迷うのを、そして山谷ばかりの道を歩いているのを導きながら、神のしもべの光に気づくのを待っておられる。そしてその道を平らにして下さる。そのようにして神は人々を見捨てないと言われるのです。信頼せよと神は言われるのです。
18-25節: 目の見えないイスラエルの民に語る主
19節の「しもべ」はイスラエルの民のことです。特に民を導く祭司や教師たちです。彼らは見ることも聞くことも普通に出来ましたが、神は、彼らは、目が見えず、耳が聞こえないと非難しています。イエス様はイスラエルの民に「耳のあるものは聞きなさい」、「自分の目から梁を取り除きなさい。」と教えていました。更に『私たちは見える』と主張する祭司や教師たちには、「あなたがたの罪は残ります。」と宣告します。20節に「多くを見ながら、心を留めない」とあるように、霊的なことに盲目な自分の姿を見ようとしないからでした。
神が歌えと言われた新しい歌は、今までの歌と何が違うのでしょうか。
まだ起こっていない、神が始められる新しいことを喜ぶ歌です。それは、イスラエルの救いだけではなく、世界中に、神に造られた者全体に広がった救いです。そして、苦しみの中にあってもイエス・キリストを通して与えられる神の光、平安と癒しが与えられることです。更に、死の恐れを前にして、イエス・キリストを通して与えられる永遠のいのち、私たちが住まわせていただける住まい、新しいエルサレムを喜ぶ歌です。
(小室 真)
