56章では、虐げられていた者も異邦人も、安息日を守り、新しい契約を信頼していなさい。ただし自分の利得を求める指導者には気をつけるようにと教えていました。
57章では、神から離れ、偶像に従う者に救いを与えようとする、神の究極的な救いを教えます。
この章は、三つの平安が語られていて、とても面白い構造をしています。
最初の1-2節は「義人が平安に入る」こと。終わりの20-21節は「悪しき者に平安がない」こと。この二つに挟まれた3-19節は、偶像に従う者たちに向けて「遠くの者にも、近くの者にも平安あれ」と神は命じるのです。
この中間、つまりあんこの部分3-19節について詳しく見ましょう。前半の3-10節は、神から離れて偶像に従う者たちの姿を、姦夫や遊女、占いや霊媒師の姿として表現しています。具体的に描くことで偶像に従う自分の姿に気づくようにと導いています。後半、11-19節は、偶像に従う者を救おうとする神の働きの預言です。
後半11-19節も3つに分けると理解しやすくなります。
11-13節:偶像に従い続ける者についてです。
11節「あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしのことを思い出さず、心にも留めなかった。」
偶像に従う者は、神の存在を無視して神に頼らないので、人を恐れることになります。例えば、お金に救いを求めるものは、お金をくれる人、また奪う人を恐れます。
人はそれぞれ自分が従う偶像にとって良いと思うことを行いますが、それで自分が救われることはありません。「その実績は風やもやに運び去られる」と表現される程、意味がないものです。お金を求める人は大きな資産を貯え、名誉を求める人はたくさんの勲章を得、地位を求める人は立派な肩書を得るでしょう。でもそれは自分のいのちの救いにはなりません。
13-14節:神に身を寄せる者について書かれています。
13節「わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。」
神に身を寄せる者とは、神以外に身を寄せる所がない人、神以外に頼るところがない人です。神の身元に置いていただくため、不完全であっても神の御心に従う努力も、神に救いを求める祈りもするでしょう。「神の元よりもっと良い所はないか」と移り先を探すことはありません。
神に身を寄せる者は、地を受け継ぎます。これも難しい表現ですが、創世記1章28節で言われた「地を従える」という働きが与えられるのです。神から受けた力によって、福音と平和のための働きや祈る務めが与えられます。
15-19節:神の終末的な救いについて書かれています。
15節の「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。」
これは、イエス様のことです。神の子として神の右に座におられます。高く聖なる所です。
人の子としてこの世に来られました。砕かれた人、へりくだった人を導くため、人と共に地に住まわれ、十字架の死とよみがえりを受けられました。そして多くの人が救われるのですが・・・
イエス様を知ってもなお背いて自分勝手な道を行く者、貪欲な行いを改めない者がいます。
17節「彼の不正な利得の咎のために、わたしは怒った。」この「彼」のことです。主は諦めずに彼を癒そうとされます。背く者の周りには、彼によって、または彼のために、嘆き悲しむ者たちが生まれますが、主は嘆き悲しむ者たちのために彼を怒られ、彼らを慰め、報いて下さると言います。
18節の「彼の道を見たが、それでもわたしは彼を癒す。」ここの「それでも」ということばは、主の強い思いがこもったことばです。神は救いを諦めないのです。
19節「わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼を癒やす。」
「唇の実」とは、神への悔い改めと、罪を赦された感謝の叫びのことです。背く者に悔い改めと感謝が生まれるように神は働かれているのです。「創造」とありますが、この働きは、人の考えを超えた神の素晴らしい働きだということです。遠くの異邦人にも、そして近くのユダヤ人にも神は平安を与え、癒して下さるのです。ここでは「救う」ではなく「癒す」となっています。これは聖霊によってその人全体を回復させるという意味です。
57章の先頭と末尾に義人と悪しき者のことが語られ、中間で神に背き続ける者と、神を知って神に身を寄せる者のことが語られていることを見てきましたが、背く者の歩む道を見て、神はそれでもあきらめずに救おうとするのです。20-21節に悪しき者の厳しい状況が「荒れ狂う海のようだ。」と書かれています。上下左右の激しい揺れの中で定まるところがありません。投げ出されれば溺れるしかありません。恐ろしい状態です。悪しき者が一人も出ないように、神は働かれているのです。
(小室 真)
