50章で神は語られました。「わたしから離れて行こうとするイスラエルに、わたしはそれでも救いの手を伸べる。」そこには「主のしもべ」としてイエス様の姿が隠されていました。続く51章にもイエス様は隠されています。
1-8節:神のことば:とこしえに続く神の義
2節に「あなたがたの父アブラハム」とあるので、神が語りかけているのはイスラエルの民だと分かります。その中の「義を追い求める者」「主を訪ね求める者」、つまりイスラエルの民の中で神の救いを求める者に語りかけます。
「あなた方が切り出された岩」「掘り出された穴」とはイスラエルの民の父祖アブラハムとその妻サラのことです。神はアブラハムただ一人を選び出し、彼の子孫を増やしました。あなたがたがその子孫なのだ。神が心を砕いてイスラエルの民を造ったことを思い起こさせます。「目を留めよ」「心を留めよ」「耳を傾けよ」と重ねて命じています。主はあなたがたを祝福し、その住まいを、楽しみと喜び、感謝と歌声で満たすと言うのです。
4―8節の、「わたしのおしえ」「わたしのさばき」「諸国の民の光」「わたしの救い」「わたしの義」「わたしの腕」すべてキリストのことです。キリストが世に現れ、諸国を治めるようになる。世界中がキリストを待ち望んでいる。しかもキリストの統治はとこしえに続く。神はそう宣言されます。
6節には「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義は絶えることがない。」また、8節には「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる。」このように言い回しを変えて繰り返していますが、「神の義と救いは永遠に続く」、つまり「キリストは絶えることはない」ということ。これは、とても大切なことです。
神殿の素晴らしさを弟子たちが褒めたたえた時、イエス様は永遠に続くものに目を留めるようにと教えました。「この天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24章35節)。また、パウロは「キリスト・イエスには永遠のいのちがある。」(ローマ6章23節)と教えています。イエス様もパウロもイザヤ書から神の約束を弟子たちに教えていたのです。
私たちは、新しいこと、目先の変わったこと、変化に目をひかれ、飛びつきますが、多くの事は長続きはしません。廃れてしまいます。ところが、神のことば、神の救い、神の義、イエス・キリストは変わることなく、滅びることがない。時間の試練を受けても滅びない、本物だということです。しかもそこにいのちがあるのです。いのちを求める者にはこれ以上安心なことはありません。
9-11節:力をまとう主の御腕
イザヤは主のみ腕に向かって「力をまとえ」と呼びかけます。主のみ腕とはキリストのことです。ラハブは海の竜のことですが、エジプトを暗示することばです。かつて奴隷にされたイスラエルの民がエジプトから逃れる時のことが、ここで語られています。モーセは10の災いを通して真の神が誰かをエジプトに示し、イスラエルの民をエジプトから救い出しました。紅海の水を裂いて道を作り、戦車で追いかけてくるファラオからイスラエルの民を逃がし、カナンの地へと導き入れたのはイスラエルの神でした。この時、神は「力強い御手を伸ばして」これらを行ったのです。キリストは出エジプトの時も神と共にいて力強い御手としてイスラエルを救うために働かれていたのです。
その神の御手が、今も変わらずイスラエルを救う。民には永遠の喜びが与えられると神は宣言されます。これはイスラエルとすべての異邦人に救いを得させる約束です。この救いに私たちは入れられているのです。この救いの中心がキリストなのです。キリストには、「おしえ」「さばき」「諸国の民の光」「救い」「義」「主の御腕」という、多くの働きがありますが、人の目には見えません。
Ⅱコリ 4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
イエス様があなたに働いておられる所、目に見えないところに目を向けましょう。その見えないところは、あなたの中にはっきりとあって、永遠に続くのです。
『わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる。』のです。感謝します。
(小室 真)
神の「慰め」についてです。
12―16節と22―23節、鍵カッコで囲まれているところは神のことばです。鍵カッコのない17-21節はイザヤが語っています。旧約聖書の原文にはこの鍵カッコはありませんが、各言語に訳されるときに、鍵カッコがつけられました。
12-16節:主のことば~民を慰める主
ここで、「あなた」、また「あなたがた」、そして「シオン」は、イスラエルの民、捕われ人、神のしもべのことです。12節で、神は『わたしこそ、あなたがたを慰める者。』と言われます。『慰める』とは、肉体の苦痛、心の苦しみ・悲しみ、霊的苦痛を取り除くことは出来なくても、その痛みをやわらげ、必ず、喜びに変えられることを約束し、苦難を乗り越える力を与えてくれるものです。本当に慰めることが出来るのは神だけです。
今イスラエルの民は虐げる人を見て恐れ、神を見失っているけれど、神は必ず、囚われた者を救い出し、さらに死からも救い出し、日々の食事を得るようにして下さる。また、神のしもべには、神の救いのことばが与えられると約束しているのです。
17-23節:憤りの盃からの救い
イザヤがイスラエルの民に向かって語ります。
17節にある「憤りの杯」、「よろめかす大杯」には「主の憤りと、神のとがめ」が満ちています。イスラエルの民が神に背を向け、偶像に頼ったことによって、神からとがめを受けたのです。彼女が生んだ子らとはイスラエルの民のことです。彼らは、その杯を飲んで、気を失い、通りで倒れ伏し、酔った者のようです。さらに彼らは国の導き手を失ってしまいます。この二つのことを通して、イスラエルの民の上に暴行と破滅、飢饉と殺戮(さつりく)が蔓延するのです。
19節に「どのようにして、あなたを慰めようか。」とありますが、そうするとイザヤが民を慰めることになります。この部分は「だれが、あなたを慰めるだろうか。」とも訳すことが出来ます。民を慰めるのはイザヤではなく、主しかおられないのです。21節に「酔っていても酒のせいでない者」とありますが、それは、神に背を向けることを選ぶことで、お酒に酔ってもいないのに、気を失ったり、通りで倒れたり、よろめいたりする民の姿を表しています。
22節で、イザヤはイスラエルの民を救おうとする神のことばを伝えます。裁きは終わった。あなたがたが受けた神の憤りととがめを二度と受けることが無くなる。逆にその杯を、あなたがたを悩ませていた者たちに渡すというのです。
22-23節で、「わたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。」と神は言いますが、それはどの時のことか、が問題です。バビロン捕囚から救いだされたBC537年としたら、約600年後の西暦70年にローマ軍による神殿崩壊がおこります。この時イスラエルは大きな悲劇を受けています。現代においてもイスラエルから憤りの大杯が取り上げられているとは思えない状況が続いています。説明がつきません。
では、まだその時期が来ていないのでしょうか。イエス様がよみがえってから、弟子たちは聖霊を受けて、解き放たれ、キリストによって永遠のいのちを受けると福音しています。
22-23節の解釈として、次のように考えることが可能です。ゲッセマネで神の怒りの杯を飲んだイエス様が、辱められ、ムチ打たれ、よろめきながら十字架を背負い、通りで倒れ伏しましたが、これ以降神は、イエス様に大杯を飲ませることは二度としない。イエスを死に追いやって打ち勝ったと誇っているサタンにその杯を与えると、神がそのように宣言されていると捉えることができるのです。
痛み、悲しみの中にいる私達を慰めて下さるのは神です。痛み、悲しみの中から救う約束は、イエス・キリストを通して既に実現しているのです。
(小室 真)
