イザヤ書40-55章はバビロン捕囚からユダヤ人を解放する預言でした。その解放はキリストの救いの預言に展開されていました。56章以降は第三イザヤとも呼ばれ、終末の救いの預言に比重が増していきます。
1-8節は、いろいろな人に向けて神の祝福のことばが繰り返されます。
全ての人と、ユダヤ社会で疎外された宦官、異国の民に向けて預言しています。
宦官は王の周辺で働くために去勢された男性です。 バビロンで捕囚となったユダヤ人の高官には宦官にされた者が多くいました。生まれついてのユダヤ人なのに、彼らはイスラエルの主の集会に加わることが許されませんでした。更に彼らは子がいないため自分の名前が途絶えることでも心を痛めていました。彼らは「ああ、私は枯れ木だ」と嘆いていたのです。神は彼らに、「絶えることのない永遠の名を与える。」と言われます。
イスラエルの神を信じ、ユダヤの社会を受け入れて、身を寄せる異国の民は「寄留者」と言われています。神殿の内庭に入ることは出来ませんが、他のことはユダヤ人と同一に扱われました。更にユダヤ人には、彼らを虐げてはならない、彼らを愛するようにと命じられていました。全焼のささげ物も神殿で受け入れられていました。7節にあるように、全焼のささげ物やいけにえが受け入れられないことは律法にはありませんでした。寄留者に不満はなかったでしょう。
一方で、6節の「異国の民」、は面識のない民とか、異教の神の民といった意味です。新約聖書に出て来る異邦人に相当します。異邦人が「民から切り離される」と自分の不安定な立場を訴えるのは、イエス様がよみがえられてから、教会の時代になってからのことです。56章はまるで、この時代を見越して預言されているようです。神は異邦人に向かって、「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。」と言われます。これは私達のことです。
イエス様がエルサレムの神殿で宮清めをされた時、このことばを教えています。マルコ11:17です。イエス様は人々に教えて言われました。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。」
神殿が全ての人に開かれて「あらゆる民の祈りの家」となって、イザヤの預言は成就したのです。
ここに条件がありました。「安息日を守る」と「契約を保つ」という条件です。
「安息日を守る」はもともと、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8)からきています。ご自分でお造りになったすべてのものをご覧になった創造の6日目の終わりに、「見よ。それは非常に良かった」と神は満足し、喜ばれました。これで神は安息に入られました。
「安息日を守る」とは、神が私達のことを満足して喜ばれたことを思い起こして神に信頼し、その神の愛を心に留めることです。
また、「契約」は、新しい契約のことです。イザヤ書55章3節「聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」
とありました。主を求め、主に帰ることで、神は豊かに赦して下さるという契約です。この契約に信頼することです。
1節で救いが来るのは近いとイザヤは教えています。しかし注意しなければいけないのは、見張り人である指導者たちです。9-12節にあるように、彼らは皆、神の救いが来ることに目を向けず、自分の利得を求めて、自分勝手に生きているのです。このように自分の役目を果たさないイスラエルの指導者達を信じないように、イザヤの教えから離れないようにと忠告しているのです。
(小室 真)