「わたし」とは誰のことか、考えながら読んでいきましょう。
1節「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。」この「わたし」はイザヤです。また「わが愛する者」は神です。「ぶどう畑」は、7節にあるようにイスラエルの家のことです。1-6節は愛の歌の前書きになっていて、「愛の歌」本体は7-30節です。
ぶどう畑の持ち主は良いぶどうの木を選び、それを喜んで植え、手間をかけて育て、畑を整えました。ところが、期待した甘いぶどうは出来ず、酸いぶどうしかならなかったのでした。
「今、エルサレムの住民とユダの人よ、」で始まる3-6節の「わたし」は神です。ぶどう畑の持ち主である神の嘆き、民への語りかけです。その結論は、ぶどう畑を荒れるに任せると言うものでした。
7節から、ぶどう畑に対する愛の歌です。神のためにイザヤが歌っています。神は公正と正義を望まれたのに、イスラエルは流血と悲鳴ばかりです。8~25節に、その状況、イスラエルの6つのわざわいが並びます。「わざわい」には、災難という意味だけでなく、悲痛、苦悩を含んでいます。「わざわいだ」には、「悲しいことよ」「なんと苦しいことか」というニュアンスが含まれているのです。
わざわい① 8節、土地を独占する有力者や支配者たちです。弱い者を締め出し、貧しい者に土地を使わせません。すると土地は収穫が少なくなると言うのです。10ツェメドの畑から取れるぶどうの量は普通500バテだといわれます。1バテしか生まないということは1/500です。1ホメルは230リットル。1エパは23リットルですから、蒔いた種の1/10しか実がならないと言うのです。
わざわい② 11節、朝からお酒と遊興におぼれる支配者たちです。お酒に目がうばわれ、主の恵みも警告も目に入りません。自分も民も飢え渇くことになります。
わざわい③ 18節、嘘をつき、罪を重ねる支配者たちです。神の預言の成就を待つと口では言いながら、神のことばを軽んじて、馬鹿にしているのです。
わざわい④ 20節、自分の都合に合わせて善と悪を取り換え、社会の秩序をこわす者たちです。
わざわい⑤ 21節、自分の浅はかな知恵に頼り、傲慢になっている者たちです。
わざわい⑥ 22節、②のお酒と遊興におぼれる者とは異なり、日常的に強いお酒に麻痺した生活をする者たちです。自分の利益のためには善悪を取り換えることをいとわない、倫理観を失った人々です。
これらのわざわいは、今の時代も、世界中にそのままあるように思えます。
主は、この状態を放っては置かれません。30節にあるよう、「地を見やると、見よ、闇と苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。」というようにイスラエルを厳しく打たれるのです。神が直接手を下すのではなく、遠く離れた国を起こしてイスラエルを攻めさせるというのです。実際に北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダはバビロニアに捕らえられていきます。イエス様の時代にはローマに支配されました。今の時代も、終わりの日です。主の御手は伸ばされています。
この歌は、まるで呪いの歌のようです。どこが、愛の歌なのかと疑問を感じます。
主は公正を望まれ、正義を望まれています。弱い者たちのために、厳しくさばくことを通して、甘いぶどうの実がなることを期待しているのです。この歌は完結していませんが、主は闇と苦しみの先に、光をもたらそうとされています。愛するぶどう畑に対する神の愛の歌なのです。
終わりの日に、神がわざわいとされたものは、支配者、有力者、裁判官が中心です。指導者でもなく裁判官でもない私たちキリスト者に神は何を求めているのでしょうか。私たち自身が6つのわざわいに含まれないように生きることは当然ですが、パウロは、教会に対して、次のように勧めています。
Ⅰテモテ 2章1-3節をお読みします。
そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、
王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。
そのような祈りは、私たちの救い主である 神の御前において良いことであり、喜ばれることです。
祈り:
マタイ5:14-16
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
(小室 真)
