イザヤ書40-48章は、バビロンの奴隷となっているイスラエルの民と多くの民族がクロス王によって救い出されるという救いの預言です。43章で明らかにされた神のあがないについて、44章はさらに深く語ります。
44章1節~20節です。
1~7節:イスラエルのあがないの約束
奴隷の生活の中にいる民に向かって神は重ねて呼びかけます。
「聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
恐れるな、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」
ヤコブは「欺く者」という意味、イスラエルは「神と戦う者」という意味で、イスラエルの民の本質を表わすことばです。「エシュルン」は、イスラエルの詩的愛称です。「神によって良しとされた者」という意味で、そのような本質にもかかわらず神は愛しているという名前です。
なかなか神に従えないイスラエルの民に対して、神は忍耐強く繰り返し優しく呼びかけています。
43章で「新しいことを起こす」と神が言われたのは「荒地に川を設ける」ということでした。
44章では「乾いたところに豊かな流れを注ぐ」と言い変えています。豊かな流れを注いで「霊を注ぐ」というのです。この流れはただの水ではありません。聖霊を意味しています。「わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。」と預言したヨエル書2章27-29節と重なる預言です。
「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、
わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはいないことを知る。
わたしの民は永遠に恥を見ることはない。
その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、
老人は夢を見、青年は幻を見る。
その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」
この預言が成就したのは、イエス様が十字架上で亡くなって、3日後によみがえり、昇天されたあと、ペンテコステでの出来事からでした。(使徒2章17-18節)
5―6節に、神は「ある者」を贖って下さるとあります。「贖う」とは代金を払って奴隷を救い出すという意味です。
ある者達を「贖う方」は神ご自身だと名乗られます。初めであり終わりである方、ただ一人の神で、永遠の民、イスラエルを起こした方です。これが民を贖う理由です。
贖われる者の理由は一点です。自分が主のものだと公言し、人に見えるように書きしるし、自らイスラエルだと名乗る者です。つまり、イスラエルの神への信仰を自分から表現する者たちです。これには、アブラハムの子孫に限らない。イスラエルの民でない異邦人も救いに加えられることを意味しています。
パウロはローマ人への手紙10章9節でこう教えています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」
イエス様が私達のあがないになられたことを告白することは、「私は主のもの」と言うことなのです。口で告白できない人は、書いて表明してもいいのです。
8~20節: わたしのほかに神はあるか
「わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ」という不思議な業を行えるのは神、イスラエルの神以外にはいません。イスラエルの神は問いかけます。「わたしのほかに神があるか。」
当時ユダの周りの国々は人の手で作り出した偶像を神としてあがめていました。今でもそうです。イザヤは人の手による偶像を頼る愚かさを語っています。エレミヤ記10章にも同様の記述があります。偶像は人間の知恵と技術の集大成に過ぎません。しかもその材料は、人が食事や暖を取るような生活に使われる木材の一部です。14節のウバメガシは、堅いブナの木で、備長炭の原料です。
8-9節には面白い対比があります。神が造ったイスラエルの民が、神の証人である一方で、人の作った偶像が、偶像を作った人の証人だというのです。長い歴史の中でイスラエルの民は神からこれから起こることを告げられ、それが実際にイスラエルの民の身の上に起こった。この方こそ神であると聖書を通して、歴史を通して証ししています。一方で、神と崇められている偶像は、それ自身見ることも知ることも語ることもありません。偶像は、自分が人の作り物で神ではないと証ししているのです。立ち返ってみればいかに滑稽な事か分かります。
「灰を食物とする」、つまり意味のない物を求めて生きている偶像製作者が頼りにしているのは、だましごとです。それは人を救うことはできません。彼らの右手の働きは、彼らの技術と労苦を誇るだけの作品なのに、あたかも力ある神だと主張する。その偽りを認める知識も英知もありません。
私達が救いを求めるべき方は、初めであり終わりである方、ただ一人の神で、「わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ」と約束されたお方です。
(小室 真)
21~23節・・イスラエルの罪の赦しの約束
21節で「ヤコブよ、これらのことを心に留めよ」と呼びかけます。ここでは、「今までの繰り返しになるけれど、これからとても大切なことを話すから忘れないようにしなさい」と言うのです。それは何か?
①「わたしがあなたを形造った。」
②「あなたは、わたしに忘れられることがない。」
③「わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」
人は性格も癖も特徴も体形も、生きてきた文化や習慣も一人一人違います。良い所も悪い所も人それぞれです。自分を振り返ってみると、嫌なところや、情けない所、恥ずかしいと思っているところ、たくさんあります。でもそれは神様が形造られたものです。自分が小さなもので、何の役にも立たない、社会に忘れられた存在に思えたとしても、神は「 あなたは、 わたしに 忘れられることがない。」と言われるのです。すごいのは、「あなた」が主語。あなたはそういう存在だ。あなたを中心に話しているのです。
昔からの教えに「お天道様が見ている。」というものがあります。人に見られていなくても、悪いことをしないように戒め、更に良い行いをするための動機付けとなる教えです。神様というより閻魔様がいつも見ているでしょうか。善悪を常に意識させることばです。
イザヤが言う、「あなたは、わたしに忘れられることがない。」という神のことばは、表面的な善悪を越えた、人の存在に関わる根源的な意味があります。どんな状態であっても神はあなたのことを覚えていて、気にかけている。あなたの存在を認めている。ということです。善悪は関係ありません。たとえ人知れず孤独な状態であっても神は覚えている。なぜなら神があなたを形造ったから。
たとえ死んでも、神はあなたを覚えている。なぜなら神があなたを形造ったから。神の中であなたは生き続けるのです。
神は、常に自分の所に帰って来るように呼び掛けていますが、人は神の元に帰ることができません。それは罪を犯しているからです。創世記3章、アダムとイブが、神の言いつけを守らず、知恵の木の実を口にしてしまったとき、神が呼びかけても二人は木陰に身を潜めて隠れました。これが人間です。罪の奴隷となって、見えない足かせをはめられて神の前に出ることが出来ないのです。今回、神は、人が自分の罪を認める前に、罪の代価を払って贖って下さったというのです。贖うとは「身代金を払って奴隷を助け出す」ことです。神は言われます。「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。」目に見えない罪の足かせを外して下さった。今まで重く体の自由を奪っていた罪の足かせが、あたかも「かすみ」のように消えてしまう。
それを実感したとき、実感しているとき、私たちの目には、天も地も、世界中が喜んでいきいきしている姿を見ることが出来ます。
これが、「ヤコブよ、これらのことを心に留めよ」と神が呼びかけた内容です。
24~28節: イスラエル復興の約束
民を贖いだす印として、クロス王によってイスラエルの民を救い出す計画が具体的に示されます。
エルサレムは『再建され、人が住むようになり、神殿はその基が据えられる』
そして、ユダの町々は『再建され、その廃墟はわたしが復興させる』
これは、クロス王がイスラエルの民に命じて、エルサレムの神殿を再建させることです。必要な資金も物資も王が提供するのです。
淵には『干上がれ。わたしはおまえの豊かな流れを涸らす』
これは、クロス王が難航不落のバビロンを征服するとき、バビロンに流れ込む川を干上がらせて川底から町に侵入してバビロンを征服することを言っています。
キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』
これは、クロス(キュロス)王が神の導きですべてを行うことを言っています。
この預言通り、クロス王は川を干上がらせてバビロンを征服しました。預言が現実となりました。
でもこの預言は、150年も前に神がイザヤによって預言させていたものです。
このことに人々は驚きました。助け出す王の名前も、助け出す方法も具体的に語られ、
更に王が神殿復興のためにイスラエルの民を自由にして、その資金を提供することまで預言されていた。その通りになったのです。
これを信じられない人々は、イザヤ書の40章以下は、イザヤの弟子たちがクロス王の時代に書いたと主張するほどです。
神は、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにしているのです。
Ⅱテモテ3:16にあるように「 聖書はすべて神の霊感によるもの(で、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。)」ということばを信じる人々にとって、神が預言を成し遂げた事は、あなたが救われることのしるしなのです。
44:22 「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。
わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」と主は言われるのです。
(小室 真)
