6章は、ウジヤ王の死んだ年に、イザヤに与えられた幻と預言が書かれています。
きょうはその前半7節までです。
イザヤは突然、天の神殿に置かれました。神が座しておられる所ですから、至聖所です。神は、はるか高い御座に座っておられ、神の長いすそが神殿の床にまで伸びてあふれていました。神殿は煙でかすみ、御座の上は良く見えません。二人のセラフィムが二つの翼で体を浮かせ神の両側に立っています。セラフィムは他の二つの翼で神の顔を、さらに他の二つの翼で神の足を隠し、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」と大きな声で歌っています。その声は神殿に響き渡り、敷居が地鳴りのようにビリビリと震えています。その声の響きは、イザヤの全身も震わせていました。
神殿に満ちる神々しさが、「聖なる、聖なる、聖なる」という言葉と共に自分に迫ってきます。圧倒されてイザヤは叫びます。「ああ、私は滅んでしまう。この私は、唇の汚(けが)れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」
タキシードで正装した人々の間に、ただ一人ぼろを着て身を硬くして小さくなっているように、イザヤは自分の汚れでおびえています。その汚れが口にあると感じたのは、イザヤが言葉の人だったからでしょう。イザヤはそれまでも神のことばを語ってきていましたが、自分は、唇の汚れた者だと告白しました。自分の思いや感情で語ったこと、世間のことばに影響されて語ったことの一つ一つを悔いるほどにその汚れを強く感じたのです。
神の御顔を見た者は死ぬ、と言われていました。イザヤは主を見たことで自分が死ぬ、と恐れおののきました。彼は死にませんでした。セラフィムが翼で神の顔を隠していたからです。でも、イザヤは神の聖さの前で、汚れた自分を意識して、消え入りそうになっています。セラフィムの一人が、燃えさかる炭をとって彼の口に当て、その咎を取り除かれました。
セラフィムという言葉は、イザヤ書6章にしかありません。最高位の天の使いと解釈されていますが、ある人は、キリストと聖霊だと理解しています。それは、罪咎を赦すことが出来るのは神だけだからです。地上で罪を赦すことは人の子に与えられた権威でした。だから、燃える炭をイザヤの口に当てたのはキリストで、燃えさかる炭で罪を赦す力が、キリストに与えられていたと考えられます。
ルカの福音書で、ヨハネがキリストについて証しています。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」とあります。イエス様は火できよめられるのです。
この幻がイザヤに与えられたのは、ウジヤ王が死んだ年でした。ウジヤ王は若いころは神に従って国政を担ってきましたが、老年になると高ぶってしまいました。祭司にしか許されない至聖所に入ったために、神の怒りをかい、皮膚病に冒されたのです。ウジヤ王は隔離されて、政務は出来ません。孫のアハズが王となりました。父のヨタム王はすでに亡くなっていましたから、アハズ王にとってウジヤだけが押さえとなっていたのです。ウジヤが亡くなると、今やアハズ王を制する者がいません。するとアハズ王は神に敵対し始めました。神殿に偶像を持ち込むほどでした。
そのアハズ王に、またイスラエルの民に神の厳しいことばを伝え、いさめるのはイザヤの役割でした。それだけでなく、イザヤは神の子であるイエス・キリストが来られることをはっきりと伝える役割を担っていました。神はイザヤに、神の聖さを深く体験させ、その口を聖める必要があったのです。
咎を取り除かれたイザヤの口から出る言葉は、人の心に混じりけのない光を差し込み、神の義を伝えることになるのです。こうして書かれたのがイザヤ書です。
罪を告白し、主から罪咎を赦された私たちも、人の心をみことばの光で照らし、キリストの救いを伝える者なのです。
(小室 真)
7節まで、神殿に引き上げられたイザヤは神の宮のきよさに触れて、自分と自分の民の汚れを痛感しました。「自分は唇が汚れている。」と告白すると、セラフィムが、燃える炭を唇に当ててイザヤの咎を取り除き、罪が赦されたのでした。
8節、神のつぶやきから始まります。
「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」
「我々」とは、神とキリストと聖霊のことです。三位一体の神に出来ないことはないのですが、神は自分たちのために、使いとなる人間を探しています。神の思いを汲んで従う、ふさわしい者が見当たらず探しているのです。このつぶやきでは、その人を、どこに遣わすのか、何のために遣わすのかがわかりません。でも、イザヤは声を上げました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
イザヤは、どこに遣わされるのか、何のために遣わされるのか分からないまま、それを確認もしないで、引き受けようとしています。普通に考えたら無謀な発言。傲慢な提案と思われるでしょう。でも、これはセラフィムによって罪を赦されたからなのです。イザヤは、罪と咎から離れ、恐れるものが無くなりました。その恵みを受けて、ただ、神のためにどのような働きでもしたいという思いにあふれているのです。その思いは貴重です。
9節。神は、イザヤに命じました。「 『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』とイスラエルの民に語れ。 」というのです。ここで、「悟るな。」「知るな。」は命令形になっていますが、無理やりそうさせるというのではありません。『聞き続けさせなさい。でも悟ることができないままにしなさい。見続けさせなさい。でも知ることができないままにしなさい。』といった意味です。それでも、民にとっては、悟らなくて良いのに聞き続ける。知らなくて良いのに見続けるというのは、意味がないように思えます。それなら、聞かせなくても、見せなくてもいいのではないかと思うのですが、神はそこに大切な意味を考えているのです。
神のことばを聞きながら、自分の思いで勝手に解釈し、または苛立ち、神の業を見ながら、無視しようとすることで、神を恐れる心が鈍っていきます。自分の思いが肥え太るのです。神に立ち返ることが必要なのに人々は、神に頼らず、神から離れて、闇の中に座りつづけているのです。
一方でイザヤは、キリストが来られること、真理の神のことばを、宣言し続けるように求められました。これは、厳しい務めです。イザヤが神のことば、真理のことば、救いのことばを語るのですが、聞く人はそれを信じることなく、馬鹿にし、疑い、反論し、責めるのです。神がイザヤに与えたのは、不信仰という闇の中に、光のことばを灯し続ける役割でした。
この9-13節は、イザヤ1章2-9節で詳しく語られてきたことです。
イザヤは神に尋ねます。いつまで、語り続けるのでしょうか。民は、いつ、いやされるのでしょうか。と。
神は、答えます。13節、「切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。」聖なる裔であるイエス・キリストが来られる迄だと言うのです。イザヤがことばの光を灯しつづけるのは、イエス様が人の光としてこの世を輝き照らす時迄なのです。
マタイ13章10-17節を見ましょう。
種まきの喩の解き明かしをされたイエス様が、イザヤの預言の成就を宣言されます。
弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。
イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。
こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。
この解き明かしがされた時、弟子たちは神のことばを聞いて悟り、見て知りました。いつまでですか?というイザヤの問いの答え、キリストが来られる迄という神の答え、その預言がここで成就したのです。そうです。700年の時を経て成就したのです。これは、感動的な瞬間でした。
(小室 真)
