イザヤ書 49章



1-13節

40-48章では、バビロンの奴隷となっているイスラエルの民を救う者として、神はペルシヤ王キュロスを立てられると語ってきました。例えば44章28節で、「キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。」とはっきりと名前を挙げて書いていました。

ただイザヤは、キュロス王の背後にもう一人の救い主を重ねて示してきました。

44章3節で「わたしの霊をあなたの子孫に注ぐ。」とか、48章6節で「わたしは今から、新しいことを、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる。それは今、創造された。」と語って、キュロス王とは無関係な表現や、キュロス王の後に秘められていることがあるような表現です。49章からこの救い主、主のしもべについて、今までよりもはっきりと語り始めます。

 

49章前半1-13節です。

 

1-8節:救いをもたらす者を神が召される様子が語られています。

 

 

ここにある「私」をイエス様に置き換えると、新約聖書を読んでいるように感じます。

1節「生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。」

ヨセフの婚約者マリヤに神の御使いが現われて「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。(ルカ1:31)」と言いました。

「生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。」と言われたそのままです。

 

2節「主は私の口を鋭い剣のようにし・・」剣とは、神のことばのことです。この剣によって、イエス様は悪霊を追い出し、多くの病を癒しました。また黙示録19章では白い馬に乗っているイエス様について「その名は「神のことば」と呼ばれていた。・・この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。」とあります。2節の「私の口を鋭い剣のように」と同じ表現です。

 

3節「わたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」

生まれて8日目のイエス様を、母マリヤが抱いて神殿にお参りに行ったとき、老人シメオンがイエス様を見て「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光。(ルカ2:32)」と神を褒めたたえました。シメオンは赤子のイエス様の上にイスラエルの神の栄光を見たのです。

 

4節「私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。」

イエス様は人として地上で生き、イスラエルの民に神の奇跡を示し、福音を伝えてきました。休む時間もないほど精力的に働かれました。それでも無駄な骨折りや空しい働きと感じたものがあったのです。皮膚病の10人を癒したとき、神をあがめるために戻ってきた者は一人しかいませんでした。エルサレムの神殿で民にも祭司たちにも神の国についてたくさん教えましたが、裁判の時、彼らは十字架に付けろと叫び、イエスを罵ったのです。イエス様も悲しい、残念だと感じたでしょう。私達と同じように人として生きられたのです。それでも、自分の祈りが神に届き、全てに神が働かれると信頼しているのです。

 

6節で神はイエス様を地上に送り出される目的を告げます。「あなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

キュロス王の召しは、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせることでしたが、イエス様の召しはイスラエルの民の救いという小さなことのためだけではない。地の果てにまで世界中の救いをもたらすのだと言うのです。

 

7節の「人に蔑(さげす)まれている者」、「国民に忌み嫌われている者」、「支配者たちの奴隷」と並べられている名前は、一人の人を指しています。エルサレムで民衆から蔑まれ、ムチ打ちされ、十字架につけられたイエス様のことです。

そのイエス様に対して、玉座に座っていた各国の王が立ちあがり、またひれ伏してイエス様を王の王として迎えるようになるのです。

 

8節、「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、」・・・この「あなた」もイエス様です。恵みの時、救いの時とはイエス様の復活の日です。イエス様が十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫にだのに応えて、神はイエス様を復活させました。そしてイエス・キリストを信じる者もよみがえらせるという民の契約によって神の国を起こされたのです。

 

9-13節:救いの道

 

 

神は、イエス様によって、闇の中にいる者、苦しむ者をご自分のもとに集められます。それも世界中からです。12節のシニムは、ペルシヤともアジアの東にある中国・韓国・日本とも解釈されます。神の元に行くまでの旅は、飢えや渇きから守られた旅路です。羊の群れは、まるで教会のことを言っているようです。

13節には、その喜びが書かれています。「天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。」

キュロス王の背景として描かれていた、イエス様とその救いの道がだんだんと明らかにされていきます。

(小室 真)

 

14-26節

49章後半14-26節、シオンの民が神につぶやきます。

 

14-20節:最初のつぶやきです。

 

 

シオンは、エルサレムの丘の名前ですが、エルサレムやその住人、イスラエル全体をも示す呼び名です。神は世界中の人々に目を向け、救われます。多くの民が祝福される中で苦難の中に置かれるイスラエルの民が居ます。彼らはつぶやきます。「主は、私を忘れたのではないか。」

歴史の中で、神がイスラエルの民を見放したのではないかと思うような出来事が起こります。バビロンの捕囚からエルサレム回復のために戻っても、妨害する者たちに攻められます。せっかく改修した神殿は、ローマ軍によってまた破壊され、エルサレムの多くのユダヤ人は虐殺されました。

「だが、わたしはイスラエルの民を忘れることがない。自分の手に名前を刻み、エルサレムの城壁を守るために常に見張っている。破壊する者がいればそれを追い出そう。」と神は言われます。さらに、神は、世界に散らばったイスラエルの民を集め続け、人が住めない程狭くなったので、広くして欲しいと願うようになるほどだと言われます。

 

21-23節:第二のつぶやきです。

 

「私は、ただひとり残されていたのに、イスラエルに集められた者たちはどこから来たのだろう。」というつぶやきです。

自分達は、残されたわずかな民だったのに、数多くの子孫が集まり、今やイスラエルは住む所に困るほどになったのは、どうしてなのかと疑うのです。

世界に散らばったイスラエルの民は、ディアスポラ~まき散らされた者と呼ばれます。イスラエルを離れて移った先に定住して暮らす人々です。彼らは、ローマ帝国内の多くの都市に散らばって住んでいました。彼らはそこで、ユダヤ人のコミュニティーを作り、ユダヤ教の教えや習慣を守って神の民として生きています。現在、イスラエル居住者は690万人。一方、ディアスポラは800万人と多数です。ユダヤ人は世界中で迫害を受けたのに、2500年たってもその文化が維持されているのには驚かされます。

 

ユダヤ教では「安息日をユダヤ人が守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守った」と言われていますが、神が守っておられるからです。神が旗を上げて集めると、住んでいた先の国が、ユダヤ人を大切に帰還させてくれると言われます。エジプトを出る時も、バビロンを出る時もそうでした。「神が旗を揚げる」については、国連の承認を受けて1948年5月15日イスラエルが建国したと時とも考えられます。イスラエルの人口は、建国時60万人でしたが、約70年で10倍以上に増えているのです。ちなみに日本は同じ期間で8000万人から12000万人と1.5倍です。

 

24-26節:第三のつぶやきです。

 

 

「奪われた物を勇士から取り戻せるだろうか。捕らわれ人を横暴な者から救い出せるだろうか。」というつぶやきです。

神は言われます。奪われた資産を勇士から取り戻し、捕らわれ人を取り返す。弱い者が力強い者から奪い返すことは難しいのですが、神ご自身が戦って救い出してくれると言われるのです。今まで神は、エジプトの戦車を大水で滅ぼしたり、人々の知らぬ間にアッシリアの大軍を全滅されたりと、人の力の及ばない方法で戦って、イスラエルの民を救ってこられました。

 

「私は神に忘れられていないか」、また「この恵みは本当に神がくれたものなのか」、さらに「この世の中で奪われたり襲われたらどうしよう」この三つのつぶやきは、当時のイスラエルの民に限ったものではありません。現在のイスラエルは特にこの悩みの中で耐えています。でも神は、「あなたを忘れることはない。」、「あなたへの恵みはわたしが送ったもの。」、「奪われるとき、襲われるとき、わたしが争って救い出す。」と言われます。現代のキリスト者も同じです。奪われないよう、襲われないよう細心の注意をし、争う覚悟は必要ですが、私たちに代わって争い、救って下さる神を信頼するように教えています。

(小室 真)