イザヤ書 66章



1-11節

65章では、祝福された者の姿について語られていました。イザヤ書最終章、66章の前半1-11節です。祝福の約束はあっても、民の厳しい現実は変わりません。神はその民を力づけます。

 

1―2節: 神が目を留める者達について

  

バビロンの奴隷状態から解放される民は、故郷のユダの地、エルサレムに帰ることが出来るようになります。その故郷は荒れ果てています。神の神殿は破壊され、神の民も、力を失っています。神は自分の安息の場所はどこにあるのかと尋ねます。天が神の王座、地が神の足台ですから、人が神の家など造れるはずがありません。それが分かっておられる神は、自分の安息の場はご自分で造った。既にあるのだと言われます。

それは、どこにあるのでしょう。

「わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」

神はその人の内に住まわれるのです。

パウロは第一コリント3:16でこう言っています。

 「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」あなたがたとは、イエス・キリストの土台の上に立てられた者だとパウロは言いましたが、イザヤは、貧しい者、霊の砕かれた者、神のことばにおののく者だと言います。とても興味深いことです。

イエス様は山上の説教で「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。柔和な者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。」と言われました。イザヤ書66章2節の「貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者」と共鳴しています。神の創造した人間という器の中に、貧しさ、砕かれた霊、神のことばへの畏れが整ったとき、そこは神の住まい、神の安息の場となるのです。

 

3-5節:神をさげすむ者達について

  

3節には、神をさげすむ者の姿が語られています。確かに彼らは、律法に従って牛や羊や穀物のいけにえを捧げていますが、人を殺したり、汚れたことを行ったり、異教に従ったりしています。彼らは神に目を向けることも、神の御心を求めることも、真剣ではありません。いい加減な者たちです。神は、彼らに対して厳しく扱うと決められました。

神をさげすむ者達は、神のことばにおののく者を、憎み、押さえつけようとします。そして、「主が共にいる栄光を見せて見ろ」と挑んできますが、逆に彼らが恥を見ることになると主は言われます。

 

6-11節:騒ぎの声

  

神をさげすむ者達がどのようにして恥を見るのかが示されます。騒ぎの声が、エルサレムから、神殿から聞こえてきます。陣痛が来る前に、産みの苦しみと同時に子供たちが生まれるというのです。つまり、痛みを味わうことなく子供たちが生まれてくるのです。イエス様がよみがえられてから起こったことを見てみましょう。

イエスの弟子たちが家に集まって祈っていると、天から突然激しい風が吹いて来たような響きが起こって、皆がいろいろな言葉で神を褒めたたえだしました。イエスこそキリストだというペテロの証を聞いて、3千人が洗礼を受けました。その後、弟子たちは神殿でキリストの福音を語り、5千人が加わりました。こうしてシオンは胎を開いて子を産み続けるのです。

 

キリストが来られれば、たくさんの霊の兄弟姉妹が生まれ、成長させられるという将来の望みがあります。しかしキリストの来られる前であっても、貧しい者、霊の砕かれた者、神のことばにおののく者は主の宮なのです。喜び、喜べと主は言われるのです。

(小室 真)

 

12-24節

後半は、主の民の永遠の礼拝について語られます。

66章12―24節です。

 

12-14節: エルサレムの繁栄

 

10-11節では、エルサレムとともに喜ぶように神は促していました。12-14節では、そのエルサレムを神は繫栄させると言われます。エルサレムとは神の住まい、神の宮です。エルサレムは、赤ん坊に乳を与え、かわいがり、育て、泣く時に慰め、喜びを与えます。この赤ん坊とは、神のことばにおののく者達です。この赤ん坊に敵する者に対して、神は激しく怒って戦ってくれるのです。

 

15-17節: 神に敵する者たちへの激しいさばき

 

敵対する者への怒りは、厳しい裁きとなって現れます。敵対する者の中には、17節にあるように、身をきよめて神に従っていながら、汚れた者や偶像の一つを選んで心を寄せている者もいるのです。

 

18ー21節: 祭りに集められる諸国の民

 

18節の「わたしは彼らのわざと思いを知っている。」この「彼ら」は17節の神に従うふりをして異教の教えや偶像に心を寄せている者のことです。神は彼らの実際の行動と思いを知っておられ、彼らを捨て置いて、「すべての国々と種族を集めに来」るのです。これまでユダヤ教の中だけに現わされていた神の栄光が、異邦人の世界に現れることをユダヤ人が見ることになるのです。

ペテロが幻を見てカイザリアのコルネリウスを尋ねることになりました。そこでペテロがイエスの話をしていると集っていたギリシャ人の上に聖霊が下って異言を語り、神を賛美したという出来事がありました。(ヨハネ10:44-47)まるでこの時のことを預言しているかのようです。

19節には、彼らの中に置かれる「しるし」とありますが、これは聖霊のバプテスマとも十字架とも考えられます。

20節で「すべての国から神の栄光を見た者達をエルサレムに連れて来る」と言い、

21節で、神は「異邦人の中からも、祭司、レビ人を選び出す」と言われます。

これらのことから、エルサレムとは地名としてのイスラエルの都ではなく、神の都であるエルサレム、キリストの教会であることが分かります。聖霊の働きと十字架というしるしを掲げ、異邦人の中から祭司や教師をえらび、教会を立て上げる。その教会を通して世界中に福音を告げ知らせ、神の救いを信じた者は神へのささげ物とされるのです。

パウロはローマ人の手紙12章1節でこう言っています、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」

神へのささげ物になるとは、心を捧げて神を礼拝することです。

 

22-24節: 主の民の永遠の礼拝

 

神の言われる、新しい天と新しい地は、神の教会が世界中に満ちた世界を示しています。この教会の礼拝は、神の前にいつまでも続きます。そして教会は霊の子供達を生み続け、その存在は神によってしっかりと覚えられるのです。

 

1章で「天よ聞け、地も耳を傾けよ」と始まったイザヤ書の最終章66章で、神が造られる新しい天と新しい地が意味するもの。それが、神の教会が天と地を貫く新しい存在として世界中に広がる世界だと預言していました。イザヤの預言が、イエス・キリストの苦難とよみがえりを通して 今、私たちの目の前に形となって現れていることに驚きと感謝を覚えるのです。

(小室 真)