イザヤ書 32章



1-20節

エルサレムを侵略しようとするアッシリヤの軍隊を人の手によらない剣で滅ぼす。イザヤは31章で、非常に具体的にエルサレムの救いを預言しました。ここで一連のアッシリヤに関する預言は終わり、32章からガラッと内容が変わります。周辺国に攻められるエルサレムの時と場所を超えて、最終的な神の救いの世界が預言されていきます。

  

1-8節:神が与える究極的な秩序の約束

 

1節:「見よ。一人の王が義によって治め、首長たちは公正によって支配する。」イザヤは「一人」、と王と特定しています。その王は義によって治め、公正によって首長たちが支配します。「義によって治める」のは、善悪によって治めることではありません。神と人が愛と信頼を保つことです。それには罪の赦しと救いが必要です。その王は、十字架にかかられたイエス・キリストしかおられません。イエス様の十字架には「ユダヤ人の王」と3か国語で書かれていました。王であるキリストに仕える首長たちは公正によって支配します。イザヤ1章17節で、公正とは「虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護する」ことだと分かります。その国に住む者は災害にも日照りからも助けられ、人々は目も耳も頭も口も良く働かせて生きるのですが、それは9節以降の安逸を貪る生き方とは逆の生き方なのです。神はそれを高貴な生き方だと評価されるのです。

 

9-14節:過ぎ去る安逸

  

9節で「安逸を貪る者」「うぬぼれている者」に対する戒めが語られます。

エルサレムはアッシリヤの大軍に包囲され、明日は全滅するという危機から、突然、神の神秘的な力で助けられます。目の前の危機が過ぎ去ると、国の指導者も民も安心して、緊張感のない、のんきなだらしない生活に戻ってしまうのです。目に見える危機がないことで緩んだ生活をしてはならないとイザヤは戒めています。具体的には、困ったことさえなければ、神に目を向けることなく、自分には力があるとうぬぼれて生きる生き方です。11節、うぬぼれや安逸を脱ぎ捨てて、義によって治める一人の王に目を見開き、そのことばに耳を傾け、主の知恵を求め、語るべきことをはっきり語る生活を目指しなさいというのです。

 

15-29節:平和と安全

  

重要な事が預言されています。15節「ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ」ることが約束されたのです。神の預言者が戒めても、安逸とうぬぼれた生活はなおることはありません。そこで、神は私たちに御霊をそそがれるのです。イザヤは「ついに」と言います。最終的な救いのみわざだということです。御霊は、「いと高き所から」、つまり神のもとから私たちに注がれるのです。イエス様はそのことを更に詳しく教えます。ヨハネの福音書15章26節「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」ここで「わたしが父のもとから遣わす」とあります。イエス様が父のもとに戻らなければ聖霊を遣わすことができません。その意味からも、イエス様のよみがえりと昇天が必要なのです。

 

32章は、神の霊が注がれる時がくること、「一人の王の統治」の預言です。17,18節「義が平和をつくり出し、義がとこしえの平穏と安心をもたらすとき、私の民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む。」「義」は神と人の間にある愛と信頼の関係のことです。その関係はキリストと読み替えることが出来ます。このように、神はキリストによって平和と安全な人生を私たちに約束しておられるのです。

(小室 真)