イザヤは、4章で「主の若枝」、6章で「聖なる切り株」、7章と9章で、「ひとりのみどりご」と未来の希望について小出しに語ってきました。
11章では根株と若枝はどういうものか、そして若枝が来られると世界はどのようになるのか語ります。
1節「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
エッサイはユダ族の貧しいベツレヘム人でした。サウル王に代えてイスラエルの王を立てるためにエッサイの息子に油を注げと、神がサムエルに命じました。Ⅰサムエル16章です。エッサイには7人の息子がいました。長男以下、容貌も体格も見栄えの良い兄弟達でした。サムエルもこれは良いと思ったのですが、神は兄たちではないというのです。
最後に連れて来られたのが羊飼いをしていた末っ子のダビデでした。神はこの子に王として油を注げとサムエルに命じ、このダビデからダビデ王朝が始まりました。ダビデ王朝は何代も続きましたが、神に従わず、ついには切り倒されてしまうのです。でもエッサイの根株は残されていました。エッサイの根株から新芽が生え、若枝が出て実を結ぶとは、貧しいエッサイの子孫からユダヤ人の王が新たに生まれるということです。イエス様のことです。
イエス様はエッサイの子孫で貧しくありました。そして、イエス様の十字架の罪状は「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」となっていました。イエス様がエッサイの根株から出た若枝なのです。根株から出る新芽は株の横から、水平に伸びています。根株から出ているので、とても低い所にあります。この新芽は、人がこうべを垂れた時、初めて目に入るのです。
2節「その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。」
神の霊は暴力や権力をふるう霊ではありません。すべてを知っておられる霊です。それは真理の御霊です。どんな力のある者も、全てを知っている相手には頭が上がりません。イエス様にはその知恵と悟り、思慮と知識の霊がとどまっていました。
イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けると天が開け、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に下ってとどまりました。「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」という声が響き渡ったのです。全ての福音書がイエス様の上に聖霊がとどまった出来事を伝えています。それはこのことが大変重要だと言うことです。ヨハネがイエス様に洗礼を授けたのは、イザヤ10章2節、人の上に御霊が留まるという預言が成就したことを世界に証しするためだったのです。
3―4節「この方は【主】を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。」
人は、表面に現れたもので判断します。ところが、主は、目に見えるところや耳の聞くところでは判断しないというのです。では、何で判断するのでしょう。
ヨハネ8章には、姦淫の場で捕らえられた女がイエス様の前に連れて来られた出来事が書かれています。イエス様は「わたしもあなたを裁かない。これからは罪を犯さないように。」とそのまま女を去らせました。イエス様は、目に見えるところで判断せず、見えないところで判断されるのです。人には言えない女の事情や、まだ見ることのできない女の未来に目を向けておられたのではないでしょうか。イエス様は、あなたの上にも同じように働かれるのです。
また、イエス様の判断は正義と公正をもって行われるのです。弱いことや貧しいことがこの方の判決を左右することはありませんが、弱い者、貧しい者のために判決を下される。それは、父なる神が、弱い者、貧しい者をあわれまれていることをイエス様が知っておられるからです。
イエス様が来られて実を結んだとき、どんな世界になるか、5節から最後まで語られています。狼と子羊、豹と子やぎが共に伏していても襲われることがない。世界中の国が、イエス様のもとに集められ、国と国、民族と民族が互いに争うことがない。こんな姿をだれが思いつくことが出来たでしょうか。でもこれが、多くの人が心の底で憧れていた平和な世界ではないでしょうか。
(小室 真)
