51章で神はイスラエルに救いの手を伸べ、その救いはとこしえに続くと神は慰められます。
52章では、良い知らせを伝える方が現われます。
7節に「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。」と良い知らせを伝える人について語られます。1-6節はシオンに向かって、11-13節はシオンに帰る人々に向かって伝えられていることばです。
1-6節: シオンへの知らせ
1節はシオンに向かっての知らせです。このシオンは、バビロン捕囚から解放された時のエルサレムのことですが、同時に私たちの閉じられた心でもあります。神が王としてシオンに入られるから、悲しみの床から立ち上がって、破れた服を自分が持つ美しい服に着替えて、王を迎えるようにというのです。「あなたの美しい衣」・・・忘れていたかもしれませんが、あなたは持っているのです。また、自由を奪っている奴隷のかせの鍵は外れていますが、振りほどかなければ繋がれたままです。この知らせがなければ気が付かないのです。知らせを聞いて初めて、心がまとっていた破れた服を脱ぎ捨てること、季節に合ったきれいな服に着替えること、真の神の宮シオンを思い出して、身も心も整えて元気になることができるのです。
7-10節: 良い知らせを伝える人の足
7節の良い知らせには、4つありました。①平和になること、②幸いが与えられること、③救いが与えられること、④あなたの神が王として治められることです。1-2節も11-13節もこの4つのことを言っています。
鎖の鍵が外れていると伝える人が居なければ、人はいつまでも鎖につながれたまま自由になりません。だから伝える人が大切なのです。そして、伝えられる人たちもその良い知らせに耳を傾けることが大切なのです。
さて、伝える者とは誰のことでしょう。イザヤともキリストとも取れます。6節で「わたしが告げる者である。」と主が言われています。そこで、伝える者は、キリストと考えて良いと思います。
伝える者は、山々の上から、つまり世界中の高い所からすべての人に伝えるのです。先日ブラジルを訪れた佳子様が見学に行ったとニュースになりましたが、リオデジャネイロ、コルコバードの丘に建つキリスト像を思い浮かべてしまいます。7節で「なんと美しいことか」と言われます。本当は、山々に立つ足は、困難なことを成しとげて傷つき汚れています。でもその足を愛おしく美しく感じる人がいました。イエス様が兄弟ラザロを生きかえらせたとき、自分のために傷つき汚れたイエス様の足をマリヤは香油を塗り髪でぬぐいました。
マリアを通して聖霊が示しているように、私たちの神は見た目で評価しません。その傷や汚れの意味を見ておられて、「なんと美しいことか」と感嘆しているのです。
11-12節: エルサレムに向かう民への声
11節の「そこ」はイスラエルの民が捕らえられていたバビロンを指しますが、同時に私たちが閉じ込められていたところ、閉じ込められている所でもあります。そこから出て、神を礼拝するエルサレムに向かうように促します。ここにも神の優しさがあふれています。「あなたがたは慌てて出なくてもよい。逃げるように去らなくてもよい。主があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられる。」決して急き立てることがありません。弱っている者が回復するまで待ってくれて、たとえ遅くなってもその前後を神ご自身が守り、共に歩いて導いて下さるのです。
13-15節: 主の姿
憐れみ深い神を感じていたところに、ドキッとすることが伝えられます。
13節の「わたしのしもべ」はキリストです。神のことばに従って、民を自由にし、その自由を告げ知らせ、都を統治する方。その功績は当然褒め讃えられます。ところが、その顔は人が見て恐れるほどだ、人とは思えないほどだというのです。見る人々の上に血が飛び散るほど出血していて、見た人は言葉を失うというのです。この驚きの理由は53章で明らかにされていきます。
(小室 真)
