第一サムエル記 5章



4章でイスラエルと戦ったペリシテ人たちは戦いに勝って戦利品としてイスラエルの神の箱を持ち帰りましたが、逆に大変なことになってしまいました。私達の神が何をされたのか、どう理解すべきでしょう。

 

 

<神の箱の移動>

神の箱はペリシテ人の主要都市の中を転々と移動していきました。

 

 

<ダゴン神と神の箱>

ペリシテ人の主要都市には神殿がありダゴンが祭られていました。

ダゴンは海の神様で、身体の半分が魚の形をした半魚人です。実はダゴンの図は皆さんも日頃よく見かけています。スターバックスはダゴンを会社のマークにしているのです。

 

アシュドデでは、神の箱をダゴンの傍らに置いていました。戦利品として持ち帰っても、霊的な物として神殿に置いていたのでしょう。元々ペリシテ人は多種の神の存在を認め、混ぜ合わせることに抵抗のない人々でした。ところが翌朝、大きなダゴンの像が神の箱の前にうつ伏せに倒れていました。イスラエルの神箱の箱を拝む姿をとっています。イスラエルの神が動かしたのか、ダゴンの神がその姿を自分で取ったのかわかりません。

 

これがイスラエルの神の業だと分かったのは、翌朝の出来事でした。元に戻して置いたダゴンはイスラエルの神の箱を崇めるようにうつぶせに倒され、頭も手も取られていたのです。形のあるダゴンの手、行動するための手が切り取られた状態になっていたことと、人々に腫物が出来たことを通して、目に見えないイスラエルの神の手が重くのしかかっていたことが対比されています。本当の神が誰なのかを、神が示しているのです。

 

<イスラエルの神による腫物>

神の手が重くのしかかった。病気のことを指していますが、アシュドテだけでなくその地域一帯に広がり、ペリシテ人を恐れさせました。伝染病の様相を示しています。ネズミを媒体としたペストではないかとも言われています。

人々は相談して、ガテに送り、更にエクロンへと神の箱を送りましたが、送られる度にその地に起こる災いは厳しくなっていきました。アシュドテでは「脅かした」程度でしたが、ガテでは、『大恐慌』となり、エクロンでは『死の恐慌』となっていきました。

 

<神の箱に対するペリシテ人の意識の変化>

ペリシテ人の神の箱への意識も移動のたびに変わっていくのが、彼らの言葉から分かります。

アシュドテからガテでは、「移そう」:捕らえたもの、戦利品に対する行動ですが

ガテからエクロンでは、「送ろう」:捕らえたものという認識はなくなりましたが、自分達が主体的に行動しています。

エクロンからは、「戻って頂こう」:イスラエルの神にゆだねる表現になっています。

ペリシテ人は力のある神を知って恐れたことが分かります。

エクロンでの彼らの祈りはもはやダゴンではなく、天に向けられたのです。

 

<神の遍在性>

神の箱と神の存在について見てみましょう。

4章の終わりでペリシテ人によって神の箱が奪われたと聞き、エリは気絶し高い所から落ちて死に、ピネハスの妻が、「栄光がイスラエルから去った」と言って力を失ったことが書かれています。

  神の箱が奪われたら栄光も去ってしまう

  神の箱を戦に持っていけば勝てる

  神の箱がなくなればその地の災いも消える

これらの考え方は、神の栄光が神の箱にあるという考えかたです。

神様を狭い箱に閉じ込めています。

 

神の箱のある所にしか、神はおられないのでしょうか。

いいえ違います。神は、空間による制限を受けず、全空間に存在されます。

これを神の御性質の一つ『遍在性』(あまねく存在する性質)といいます。

エレミヤ23:24で、

 

天にも地にも、わたしは満ちているではないか。と言われています。

 

確かに神は天にも地にも満ちておられますが、この業を行い、戦っておられるのがイスラエルの神であることを、ペリシテ人にも、イスラエル人にも示すため、イスラエルの神の箱が置かれる地だけに、神はその手をお重く置かれたのです。

 

<私達の神>

この神ご自身の存在を示されたのは、

ペリシテの民に対しては、彼らが神の箱に戻って頂いた地を二度と攻めようと思わないようにするためでした。

 

イスラエルの民にとっては、

「栄光がイスラエルから去った」のではなく、神の箱の栄光を捨て、ペリシテに捕らわれ敵地を引き回されることを通して、イスラエルを守るために働いた神の存在を知らせるためでした。

 

今の私たちにとっては、

捕らわれ、十字架にかけられ、死に渡され、三日目に復活されたイエス・キリストが、死の力を無効にして、永遠のいのちへの望みを私達に下さった姿と同じ姿を、このイスラエルの神の中に見るようにするためでした。

(小室 真)