<子を捧げる祈り>
子を捧げる時、宮でエルカナとサムエルそしてハンナはエリと共に礼拝をしました。そこで祈られた祈りがハンナの祈りです。
この祈りの冒頭は、ハンナが求めていた神との密接な関係が確認できた喜びとなっています。
『私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶ』
次に、ただおひとりの神をほめたたえ、切々と神の偉大さを語っていきます。
この祈りの形は、マリヤがエリザベツの所で祈った祈りと同じ構造をしています。
古くから、このように祈りがささげられていたのです。
<祈りを覚える>
私達に与えられた「主の祈り」を見てみましょう。
主の祈りは7つの部分からなっています。(マタイ6:9-13)
『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
大きく分けると前半3ツが天について 後半3つが地についての祈りです。
自分の言葉で祈る日頃の祈りは、地についての祈りばかりです。
天についての祈りが欠けているように思います。主とはいかなる方か、ほめたたえる祈りをしていきましょう。
相手にしっかり言葉で伝えることは大切です。
祈りの先輩たちは、祈りの冒頭、祈りの中心で神をほめたたえているのです。
ハンナの祈りも、天についての祈りが主になっています。ただ一か所、
『高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。』と自分を制する祈りが入っています。
そして自分がそうしないように、神がどのような方か再度自分に言い聞かせています。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。
ハンナはペニンナに対して見返すことはしませんでした。主を知ったからです。「すべてを知る神、確かな御業をなさる神」
私達のすべてを知っておられ、それにむくいて下さる神です。私達が神を愛していることを知って、愛するものを恵みで満たして下さる神なのです。
例え、私たちを責める者がいても私たちには主がいます。それを確信できたハンナは力強く、はっきりとエリに語り、夫に語り、自分の思いを実行できたのです。11節の家族の別れは淡々としたものでした。ハンナが、自分の子という前に、神から預かった子という思いで育ててきたことが分かります。
(小室 真)
<エリの息子らとサムエル>
神殿にはエリの息子たちがいました。若いけれども既に祭司職についてい罪を犯していました。その罪が二つ書かれています。
一つは、レビ記7:32「あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。」
と定めた祭司の分を越えてイスラエルの民に肉を求め、貪欲に強奪し続けていました。
もう一つは、「祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にする」ように命じられていましたが、その脂肪を焼く前に、強引に奪っていきました。これは神からの強奪。祭司にあるまじき罪でした。
エリの息子たちを「よこしまな者で、主を知らない」と言っていますが、主を知識の上では知っていたでしょう。実際に祭儀を取り仕切っていたのですから。ここでの「主を知らない」とは、主と個人的交わりを持っていない、または主との交流を絶っている状態のことです。
一方、主の前にただ仕えるサムエルの姿が対比して書かれています。
<麻布のエポデ>
サムエルは、亜麻布のエポデを着て、神に仕えていました。
祭司は亜麻布を着用するように指定されていました。「祭司は亜麻布の衣を着なさい。また亜麻布のももひきをその身にはかなければならない。(レビ6:10)」一方、エポデとは、祭司が祭儀のときに着用する装束でした。「栄光と美を表わす聖なる装束」(出28:2)と言われ、それは金色や青色、紫色や緋色のより糸で織った亜麻布で作り、金の環で「さばきの胸当て」が結びつけられていました。青色の長服の上に着る物でした(出28:6‐38)。そこには12の宝石がはめ込まれていました。
エポデを作るのには、費用も時間もかかったでしょう。サムエルが翌年どこまで成長するか思い図りながら、時間をかけてハンナはこの上着を作り、サムエルは母の愛情のつながりとしてこのエポデを着ていました。19節で、「サムエルの母」としてハンナの名前を書かなかったのは母の愛情を表すためでしょう。
<神の配剤>
イスラエルの政治・文化・支配の中心は神殿でした。大祭司の息子たちが、祭司であるにもかかわらず、神を無視して生きていることで神殿の中心が腐っていきます。主はこの腐敗が進む一方で、サムエルという新しい芽を育てておられました。周囲の人は気が付かない事でしたが、腐っていく組織の中にも細やかな光を主はともしておられるのです。
<万人祭司>
どうしようもない祭司、エリの息子たちは、私達には関係のない存在に思えますが、実は私達は、神から祭司とされています。ペテロ第一の手紙2:9で「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。
教会で役に付いているか否かに関わらず、キリスト者は祭司としての生き方を意識していかなければなりません。地の塩としてその存在を神が求めておられるのです。強欲な生き方、神の名前を知りながらその力・存在を無視する生き方を避けることです。幼きものとして、祈りと賛美をまとって、主の前に仕えることの大切さを改めて感じていたいと思います。
(小室 真)
<エリの罪>
さすがにエリも息子たちに言い聞かせますが、彼らは聞く耳を持ちません。そこに神の人が来て主のことばをエリに伝えます。
① 出エジプトに際し神は生きておられる姿をあらわされ、
② アロンの子孫をレビ人に定め、いけにえを取り扱う祭司に定めた。
③ それなのに「あなた方は」神へのささげものを宮の中で軽んじ
④ 「あなたは」神のわたしより息子たちを重んじた。
⑤ 「あなた」の腕と「あなたの」父の家の腕を切り落とす。
神はエリ自身を責めているのです。
エリが息子たちに語った言葉をよくよく耳をそばだてて聞いてみましょう。
『私はこの民全部からお前たちのした悪いことを知った。その噂は良い物ではない。人が主に対して罪を犯したら、誰がその者のために仲裁に立とうか。』
エリは、息子たちのした悪いことを具体的に示していません。主の民の言いふらしている噂と事をあいまいにしています。あいまいにするところに、エリの弱さが見えます。神はそれを見逃さず、『あなたも、わたしへのいけにえと住む所を軽くあしらっている。』『自分たちを肥やそうとしている』と見抜いています。
エリは祭司なのです。息子らと対峙した時に具体的事実を前において、神に悔い改めさせる必要があります。エリ自身が神に謝って、この重大な罪を犯した者を宮に入れてはいけないのです。それを避けたエリが神に責められているのです。
<神の祭司>
私たちは神の祭司です。
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(Ⅰペテ2:5)」
更に神は言われます。
『永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、──【主】の御告げだ──絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。』
神の約束は、神とあなたの関係の上に立っている。
神は神を尊ぶ者を尊び、重んじ、大切に扱われるのです。
出エジプト記17章で、荒野で水を失ったイスラエルの民は、神を試し、モーセにつぶやき、石で打とうとしました。『試す』には、神が人を試すこと。サタンが人を試すこと。人が神を試すこと。があります。
イエス様がサタンのこころみに会ったときにこの言葉を持ってサタンに対抗したように、人は神を試してはいけません。これは人が神の存在を疑って行うことなのです。ただし、マラキ書には、10分の一を捧げて神を試しても良いと言われています。これは神の存在を前提とした恵みの試しなのです。サタンも人を試します。これは誘惑です。耳に心地よく、いかにも良いことですが人を神の祝福から引き離す働きです。
そして神が人を試みることがあります。これは、苦しく辛く思えるもの、出来れば避けたいものです。でも神は敢て、これをなさいます。
これは私の思いですが、神の試みは人を選んで与えられるように思うのです。
この苦しみを通して必ず神の恵みと神の愛の確信を得る者を選んでおられるように思います。
信仰が薄いから苦しみに会うのではなく、神が必要とされる人にこそこれが与えられています。ネルソン・マンデラは27年間の独房生活という試みの末、南アフリカの大統領となりアパルトヘイトを治めました。
イエス・キリストは神の子であるのに人の世で生活し、最後には極悪人が受けるべき十字架刑によって殺されました。イエス様の死と復活によってわたしたちは永遠のいのちという素晴らしい恵みを与えられたのです。
苦しみの時・悩みの時に、それを苦しみ悩みで終わらせない、恵みにあふれるイエス様が共におられるのです。
(小室 真)
