第一サムエル記 1章



1-18節

サムエル記は、サウル、ダビデによるイスラエル王国の歴史を、預言者の視点から書いたものです。

 

サムエルは、イスラエルの歴史に大きな変化を与えた預言者でした。イスラエルはモーセによってエジプトの奴隷から解放され神が約束していたカナンに入れられました。ヨシュアによってカナンの地を自分たちのものとし、領地を拡大していきました。しかしそれは徹底された物ではなく、他の民族とイスラエルの民が混在していて、さらに周りを強大な国に囲まれていました。イスラエルはこれらに抵抗するために王を求めて行くのです。神は民の声を受け入れて預言者サムエルに命じてサウル、ダビデを王に立てていくのです。

 

 

<エルカナの家族>

エルカナは由緒正しい、エフライム人でした。家も豊かで、神に敬虔な生活をしていました。良識的な良いご主人のようです。一人の妻、ハンナには子がありませんでしたが、もう一人妻、ペニンナには多くの子供がいました。

 

<ハンナとペニンナ>

全て整っているように見える家庭の中に、二人の妻の葛藤がありました。ハンナに子供がなかったことの悲しみと、そのハンナが夫から愛され、特別に扱われている事が、ペニンナの心を荒立たせ、ハンナいじめがありました。

6節に「彼女を憎むペニンナは、【主】がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が【主】の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。」

 

ペニンナは何と言ってハンナをいらだたせたのでしょうか。いらだたせたのは、特に宮に行く時でした。またハンナの胎を神が閉じられていることは、ペニンナに子がたくさんあったことから明らかでした。ペニンナは 神がハンナを避けている、ハンナには神に嫌われる罪があるのだ、と責めたのでしょう。

ここに面白い対比があります。ハンナは、夫の豊かな愛があるのに、神の愛を感じることが出来ず悩み、ペニンナは神からの豊かな祝福があるのに、夫の愛がハンナより深くないことで、心がいらだっています。

 

<心を注ぎ出す>

ペニンナのいじめによって、やさしい夫エルカナはさらにハンナを深く愛するのですが、ハンナの悩みは、子供がいないという悩みから、神からの祝福を受けていないと感じていること、神との関係を確認できないことへと変わっていきます。それがハンナの祈りの中に現れています。

 

「万軍の【主】よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を【主】におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

ハンナは、エリに聞かれて「私は【主】の前に、私の心を注ぎ出していたのです。」

と答えていますが、祈りの中で人の祈りは問題の中心へと導かれていき、それが主の御心に合致するまでに導かれていくのです。ハンナにとっては、心を注ぐ。心から流れ出るままの祈りです。聖霊様が働いてこのような祈りに変わっていったのでしょう。

 

本来自分に与えられた長男であれば、自分の下に置き大切にしたいのが人情ですが、ハンナにとっては、悩みの中で見出した自分の願いの本質は、神に愛されているという実感だったのです。

 

<以前のようではないとは、>

この祈りの成果の凄さは、いまだ子を受けてはいないのに、「それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」と、まるきり人が変わってしまったことです。もはや、ペニンナのいじめなど何の意味も感じないのです。これは、自分の抱えていた問題を神様にゆだね切ったときの姿です。神の大船に乗っているのです。

 

<心を注ぎ出す祈り>

心を注ぎ出す祈りは、日ごろ自分の願っていたことが何だったか教え、変質させてくれるものです。神の御心に沿ったものへと導いてくれるものです。悩みのある方、望みのある方は、心を注ぎ出してみてください。主の栄光が現れます。

(小室 真)


19-28節

 

<ハンナの気付き>

ようやく幼子サムエルが乳離れし宮にお渡しできる年となった時、サムエルをシロに連れて行き、祭司エリに話します。「この子のために、私は祈ったのです。」

ハンナは確かに男の子を授けてくださいと祈りました。しかしそれは、自分のためでした。

「万軍の【主】よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を【主】におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

ただ男の子を求めたのであって、おなかに授かる前から、その子を主にささげる覚悟をしていました。子供からしたら冷たい母親に見えるかもしれません。でも主はこの子を与えてくれたのです。

 

当初は、神に見捨てられている心の悲しみから男の子を求めて神の愛を確かめようと祈ったのですが、ハンナには分かりました。この男の子は神に捧げられるべき者として、自分に与えられ、自分の誓願した男の子として与えられた。自分はこの子のために祈っていたのだ。

 

本当に神の御心にそった祈りをしていたことに気付かされたのです。

『ああ、あの時の祈りは、この子のための祈りだったのだ。』

 

<私たちの祈り>

私達も日々祈っています。これは、自分の思いで祈っているように思うかもしれませんが、そうではない。私達の兄弟が癒されるように、いのちが守られるように、イエス様を知って救われるように。日々祈っていますが、この祈りを求めているのは神様なのです。イエス様なのです。主の思いがあり、聖霊の導きがあっての祈りなのです。

 

クリスチャンの祈りは自分勝手に祈っているように思い感じるかもしれませんが、聖霊の言葉にならないうめきが私たちの口を捉えて祈りとなって、神様への香の香りとして上がっていくのです。

 

<乳離れするまでは>

ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が【主】の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは」と言って、恒例のシロへの年ごとの宮詣りにハンナは行きませんでした。

何故こんなことが特別に書かれているのか不思議です。

 

本当であれば、ペニンナを見返す絶好のチャンスです。いじめられた女性であればここぞと、立派に生まれ、育っていく息子をこれ見よがしに着飾らせ、エルカナからより多くの分け前を取らせ、ペニンナが萎れる姿を見て胸のつかえをはらそうとするのでなはいでしょうか。

 

ハンナはそうしませんでした。理由は2つ考えられます。

一つは、その子の一生を主にささげると約束したのに、夫の子として宮参りをしてしまえば、一生を神に捧げた事にはならない、神様にお渡しする前の数年であろうと神への約束をやぶることを恐れた。

もう一つは、主の前に連れて行き、家に引き戻す、連れ帰ることはしたくなかった。神の宮でエリの下で自立して生きて行けるように育て切ること、そして神の宮こそが自分の家、住まいで、エルカナの家は帰る所ではないとサムエルに理解させるためだった。それは、子の備えであり、自分の備えであり、家族の備えでもありました。

 

ハンナは誓約をするに当たって、それを果たすために深く考えて実践して行きました。誠実に神様にした約束を見続けていました。生まれた時からサムエルに言い聞かせ、自分にも言い聞かせて来たでしょう。ハンナはサムエルを育てていく中で、この子こそ神の宮に住むべき素質を持っていると感じたのではないか、自分が誓願したのはこの子のためだったと感じたのではないでしょうか。

 

<祈りを覚える>

祈りの成果は、私達が考えている以上のものを与え神は準備されているということです。教会にとって、クリスチャンにとって呼吸するのと同じくらい大切な祈り。

祈りは、神が私たちに期待していて、既にその実までもが用意されているのです。神の思いを無視しないで、受け止め無駄にすることなく祈り続けた時に私たちは自分の思いを越えた神の愛を見ることが出来ます。ハンナと同じように神様は私たちにも期待し祈りを求めておられるのです。

(小室 真)