イザヤ書61章2節では、「主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために」と、キリストが来られる目的が告げられていました。63章では、恵みの年、神の復讐の日について預言しています。
1-6節: 復讐の日、贖いの年
エドム、その首都ボツラから来るのは神です。エドムは死海の南の地域、エソウの子孫が住んでいる地域です。また、エドムには「赤いもの」という意味があります。
神はぶどうを絞り出すためのぶどう踏みをしたように着物は真っ赤に染まっています。これは神に敵する者を倒した時の返り血のしたたりでした。神はご自分の民を苦しめる者への復讐を心に決め計画していましたが、ついに自分の民を贖い出す時が来たのです。
5節、神は人の思いに関わらず復讐を成し遂げられます。「見回して、助ける者」がいる、いないに関わらずなさるのです。神が復讐するときの助けとなり支えとなられるのはキリストでした。
「自分の民を苦しめる者」とは誰のことを言うのでしょうか。神に従わずイスラエルを攻める諸国の民を直接示すのか、霊的な世界での出来事なのか、分かりません。例えば、ハマスに拉致されたイスラエルの人は、2年も光のない地下深くに拘束され、水も食事もわずかしか与えられず、暴力を受け、何とか助け出されましたが、途中多くの人が亡くなりました。その敵は、ハマスの戦闘員でしょうか、戦闘員に指示している幹部でしょうか、「イスラエル人に酷いことをするのは良いことだ」と教えるイスラム教の教祖でしょうか、その裏にうごめくサタンでしょうか。
私たちを苦しめているものが本当は何なのか、私たちにははっきりとは分かりません。理不尽な仕打ちを受けた時、怒りと不満をぶつける先を見いだせず、見いだしても怒りをぶつける力がありません。でも、神は、神の民が受けた苦難をそのままに捨て置かないで、本当に復讐すべき相手に間違いなく復讐されるのです。申命記32:35「復讐と報復はわたしのもの。」と神は言われます。
7-10節: 恵みの主を讃える
ご自分の民のために戦う神を、イザヤは褒めたたえます。贖い出し、救いを与える神の恵みです。
第一の恵みは、8節にあるように主は、私たちを自分の民とし、私たちの救い主となってくれるのです。この「主」は「キリスト」です。キリストは、全ての民を救い出すためにこの世界に来られ、十字架にかかって下さいました。キリストを信じる者は偽りのない者、義なる者とされます。
第二の恵みは、9節にあるように私たちが苦しむとき、主はその苦しみの中を共に歩んでくださいます。主こそ、私たちの苦しみを最も深く理解して下さるのです。
人間が受ける苦しみに対して神は憤って復讐をしてくれますが、それだけでは私たちの心は慰められません。神の腕であるキリストが、苦しみの中にいる人と同じ苦しみに心を重ね合わせて下さる。キリストはそのようにして神を支え、人を支えているのです。キリストは無実の罪で罪人とされ孤独を味わい十字架の苦しみと死を、ご自分のいのちを通して経験されました。その姿はイザヤ53章の苦難のしもべに示されています。だから、それがお出来になるのです。神ご自身も私たちの苦しみを理解しておられますが、私たちの目に見えません。人となられたキリストが私たちにとって大きな慰め、恵みとなられるのです。
ところが、イスラエルの民は、よみがえったイエス・キリストを否定して逆らいました。11節以下に語られます。
(小室 真)
イザヤ書63章前半で、恵みの年が来たことが語られていました。しかし10節で、「彼らは逆らって、主の聖なる御霊を悲しませ、主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた。」とありました。後半では、逆らっていた主の民が神を思い出し、主を求めるようになることが預言されています。イザヤ書63章10節から19節です。
最初に10-15節: 主を思い出す民
「その時」、主に逆らって国中が苦しみもがく時、人は自分達が何者なのか自問します。そして自分の民族の歴史を振り返ります。モーセによってエジプトから救い出された民族の歴史です。イスラエルの民を救い出したのは神でした。紅海の水を分けて海の底を歩いて渡らせてくれました。荒野で水もマナも与えて養ってくれたのも神でした。今はその神の力強い守りが見えないのです。民は叫びます。
海から導き上った方は、どこにおられるのか。
主の聖なる御霊を置いた方は、どこにおられるのか。
深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。
あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。
私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。
民は神のなされた御業の後ろにある、イスラエルの民に対する熱心、たぎる思いを感じています。神の愛を拒否して神から離れてしまった今、平安を失った今、あの時の、神の熱い思いに初めて気が付くのです。
16-19節:回復を求める主の民
イザヤは神の熱い思いを見出だして、主を求め、「まことに、あなたは私たちの父です。」と繰り返します。
イスラエルの民の現状は、神に従うことを忘れ、神に祈る神殿を奪われ、神が与えてくれたゆずりの土地から他国へと捕らえられていくのです。神の民イスラエルと言える状態ではありません。アブラハムからもヤコブ・イスラエルからも自分の子孫と認めてもらえないかもしれません。神の民の身分、イスラエルの民という誇りも失っているけれど、神の民として認めてもらいたいと一縷の望みにすがっています。
「アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても」という告白は、日頃蔑んでいる異邦人と同じところに身を置きながら、神のあわれみを求めているのです。
「まことに、あなたは私たちの父です。」この神への呼びかけは非常に畏れ多い表現です。神に向かって「私たちの父」と呼びかけているのは旧約聖書でイザヤ書の63章と64章だけです。自分達を神の子とするわけですから、神への畏れが欠けていると言われかねません。
神が「私たちの父」であることに、間違いはありません。イエス様が主の祈りを教えられたとき、こう言われました。マタイ6章9節「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。』
イエス様は、真の神にむかって、「私たちの父」と呼びかけるように教えておられるのです。
主はイスラエルの民の敵となり、自らイスラエルの民と戦われました。しかしイザヤはイスラエルの民に対する神の熱心とたぎる思い、父の愛を見出だしていました。父であれば、どんな子であれ滅びることを望みません。イザヤは、神のイメージを、愛に満ちた父として教えています。
神は、実際にイスラエルの民の一人として神の一人子であるイエス様を地上に送られ、キリストの十字架の苦難を通して民を救おうとされるのです。
(小室 真)
