58章には断食と安息日に関する神の思いが書かれています。
断食には、神に命じられた公の断食と、身を慎んで悔い改めの心を表す時や、真剣に神に願う時の自発的で個人的な断食があります。
身を慎む断食の例として、ルカの福音書5章33節に、「バプテスマのヨハネの弟子や、パリサイ人の弟子たちは、良く断食と祈りをした」とあります。また、神に願う断食の例として、
Ⅱサムエル記12章16節に、「ダビデがバテ・シェバとの間の子どもの、病気回復を求めて、断食をした」とあります。
58章で語られているのは公の断食です。これは律法に定められたもので、レビ記16章29節に書かれています。
「以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。」
第七の月の十日は贖罪の日(ヨム・キプルの日)と言われ、今の暦では9月-10月頃になります。イザヤの後の時代、断食の日が3つ加えられましたが、ここで言っている断食の日は第七の月の贖罪の日の断食のことです。
この日の日没から翌日の日没まで、イスラエルの民は食事・水・香り・薬などを断っていました。ところが、神はこの断食に問題があると言われるのです。
58章は次のような構成になっています。
1-5節 :主が非難するイスラエルの断食
6-12節 :主の好む断食
13-14節:主の安息日
それでは、節を追って見ていきます。
1-5節:主が非難するイスラエルの断食について書かれています。
敬虔な信仰生活をしているように見せているイスラエルの民に彼らの背きの罪を告げよ。と主はイザヤに命じています。「私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めないのですか。」民の心の声です。「私は厳しい断食をやり遂げたのだから、神は私を認めるべきだ」という高慢な心です。イスラエルの民は断食の務めを果たしたんだからと言って、日頃は家の労働者に厳しく当たり、周りの人と争い、暴力を振っている。断食の日と、日常の行動があまりにも違うのです。
断食の日、「葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げ」というように、自分自身を低く保って魂を苦しめ、肉体を懲らしめたとしても、それだけではレビ記16章で言う「身を戒める」ことにはならないと主は言われるのです。では、主が喜ばれる断食とは何でしょう。その答えは6節以下にあります。
6-12節 :主の好む断食です。
主の好む断食とは、虐げられた者達を自由にし、飢えた者にパンを与え、肉親の世話をする。貧しい者、悩む者の願いを満足させる。
これらは弱い立場の人への積極的な愛の行動です。主は、これらのことを断食の日に行うように求めているのではありません。断食を通して、飢えや渇き、貧しさや、心と体の痛みを覚えて、日頃、心を低くして、愛の行動をとるようになることを主は求めているのです。
その結果として、主はいつでもあなたに答え、「わたしはここにいる」と仰せられる。自分の断食を認めて欲しいなどと不満を言う必要は無くなるのです。更に、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたは、潤された園のようになるというのです。
13-14節:主の安息日
贖罪の日と言われる断食の日、と安息日は共に一切の労働が禁じられていますが、贖罪の日は「身を戒める日」、安息日は「主を喜ぶ日」です。安息日の喜びは、罪を赦され、労苦からも解放された喜びを主に感謝する日です。
6節の主が喜ぶ断食「悪のきずなを解き、くびきの縄目をほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くこと」これはイエス様によって私達の上に実現したことでした。
8節、10節に「あなたの光」ということばがあります。これはあなたを照らすキリストの光です。主の好む断食を通してキリストの光が私達の心を照らし、私たちの周りをも照らしてくれる。
その喜びを祝うのが安息日です。キリストに救われた平安を心に強く覚えるとき「そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。」という預言があなたの上に成就しているのです。
「人の子は安息日にも主です」(マルコ2:27-28)と書かれています。
(小室 真)
