イザヤ書 50章



1-11節

1-3節: イスラエルの心得違い

イスラエルの民が「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」とつぶやいているけれど、神の前から去って行ったのはイスラエル。預言者を通して呼びかけたのに答えなかったのはヤコブ。あなたたちが神を見捨てたのだ。とイスラエルの民の心得違いを、神は指摘します。主との交わりを引き裂くのは、いつも人間の罪でした。

「わたしには救い出す力がないというのか。」

と反問して、神には罪を犯すイスラエルの民を救い出す力があるといわれます。

1節の「見よ」以下は、イスラエルの民を救い出すために主がなされることを書いています。神が海を叱って干上がらせ、一匹の魚が渇きのために死に絶え、天は闇に覆われ喪に服すというのです。

 

水が引いた川は荒れ野となって、人が行き来する道になります。水を失って死ぬ魚は正確には「彼らの一匹の魚」となっています。イエス様の最後の言葉は「わたしは渇く」でした(ヨハネ19:28)。イエス様が亡くなる時、「闇が全地を覆い」ました(マルコ15:33)。福音書を読んでいる私達には、渇きの中で死んでいったイエス様がこの魚のことだと思わされます。

 

4-9節: しもべの苦難

神の救いの業につづけて、神の弟子の独白(ひとりごと)が語られます。

神の弟子は、神から言葉を与えられ、人を教え、耳が開かれ、神のことばを聞いて従います。人に背中を打たれ、侮辱される。内容的には多くの預言者に通ずるものです。

ただ、「疲れた者をことばで励ます」姿は、サマリヤの女に声をかけて救ったり、「悪霊に憑かれた子供を助けて欲しい」と求めてきた父親を受け入れて癒されたイエス様の姿に重なります。

「打つ者に背中を任せ、・・頬を任せ、侮辱され、唾をかけられ」た姿はゲッセマネで捕らえられた後、イエス様が受けたことでした。さらに「不義に定める」と言うように裁判で有罪判決を受けたことも加えると、この独白をしているのはイエス様だと思わずにいられません。

 

10-11節: 苦難の中の二つの道

イザヤは一転して読者に問いかけます。「あなたは闇の中を歩くのに自分の光を持っていますか?」自分の知恵や力では、この世の闇の中を歩めないと悟った人には、真の神であるイスラエルの主を受け入れて、信頼して歩みなさい。と勧めます。「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です(詩 119:105)。」あなたのみことばとはイエス様そのものです。

しかし、自分の力になおも頼れると思う者には、「それに拠り頼んで歩めばよい。ただし、苦悶の場所で伏し倒れることになる」とその結果を示しているのです。神は人に自由意思を与えておられ、それを尊重されています。ただ倒れても、そこに主は救いの手を差し伸べてくださいます。

 

第二イザヤ後半では、このように700年後に起こるイエス・キリストによる救いの計画が、徐々に明らかにされ、その救い主の姿は更に具体的になっていきます。

(小室 真)