第二イザヤと言われるイザヤ書40-48章は、バビロンの奴隷となっているイスラエルの民と、その他多くの民がクロス王によって救い出されるという救いの預言です。48章はその結論部分です。
その構成は、次のようになっています。
1-8節 :新しい創造の宣言
9-16節 :新しい創造の目的
17-22節:民を救う主
注目したいのは、6~8節「新しいこと」ということばです。それは「今、創造されたことで、あなたは聞いたこともない。」と宣言されています。
第二イザヤでは既に42章、43章で「新しいことを告げる」と言ってきました。
42章9節「初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」
43章19節「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野(あれの)に道を、荒れ地に川を設ける。」
その新しいことは、バビロンに捕囚になっている民を異邦人のペルシア王キュロスによって救い出すということでした。
48章でも、キュロス王を使ってイスラエルの民を救い出すことが書かれています。
14節「主に愛される者が、主の喜ばれることをバビロンに行う。主の御腕はカルデア人に向かう。・・わたしは彼を来させ、彼の行うことを成功させる。」明らかにペルシア王キュロスを神が立て、カルデア人を倒し、バビロンを征服させることを言っています。また20節の「バビロンから出よ。カルデアから逃れよ」という呼びかけは、バビロンでの奴隷生活から解放される民に、エルサレムに帰るようにというものです。さらにエルサレムに帰る民を神は助けられます。キュロス王は民に神殿再建を許し、資金も資材も神殿の宝物も民に与えました。その必要を満たす姿は、出エジプトで、のどが渇くたびに岩を割いて水を溢れさせ、民を潤した神の姿と重なります。
しかし、6から8節の「新しいこと、今 創造されたこと」は、キュロス王を立ててバビロンを倒すことではないようです。
理由は、「今、創造した。」ということばです。キュロス王の寛大さや世界を征服する破竹の勢いとその規模は、過去に例のないものですが、スケールがあまりにも違います。天地を造られた神の「創造」とは、何もない所から新しく生み出すほどのものです。
もう一つの理由は、17節、20節の「贖う」ということばです。イスラエルの民を自由の身にするための、身代金が払われていません。贖われていないのです。でも、「主が、そのしもべヤコブを贖われた」と言うからには、どこかで贖われているはずです。
1~5節に戻ります。イザヤは、イスラエルの民は、神に従う振りをしながら心では従わない。かたくなで強情だと指摘しています。それは、神の存在を知っていながら、苦難にあうたびに、イスラエルの神を離れて、目を引く異教の神やこの世の力に頼って、自分を誇ろうとするからです。
それでも神はそんなイスラエルの民を滅ぼしません。それは、自分の民を愛されるからです。愛する神は、どうしようもない者をも愛する方です。自分が愛する神であることを痛い程知っているのです。彼らには他に愛する者はいないのです。
11節「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。」ここには神の思いがあふれています。
彼らを滅ぼす代わりに、苦しみの炉で試されると言われます。ここに不思議なことばがあります。10節「銀のようにではない。」です。
高純度の銀を造り出すには品位が低い銀をルツボに入れて火にかけて高温にして溶かします。さらに高温にすると不純物がスラグになって銀と分離します。これを繰り返すことで純度を上げることが出来るのです。「銀のようにではない。」とは、何回も繰り返す必要がない。一回で純粋になるということです。
先ほどの、「ヤコブの贖い」は、「苦しみの炉でヤコブの民を試すこと」と関係しているように思われます。そして、その苦しみの炉の苦しみとは誰の、どんな苦しみを言うのでしょうか。
神は救った者に益になることを教え、歩むべき道に導くために新しい創造をなされました。
第三イザヤ49―66章に渡って、新しい創造の預言が展開されていきます。
(小室 真)
