イザヤ書 37章



1-20節

35章までアッシリアの手からエルサレムが救われることが預言されてきました。36~39章はその預言がどのように成就するか記録されています。前回36章では、アッシリアの総督ラブ・シャケがエルサレムを18万5千人の軍隊で取り囲み、「エルサレムをアッシリアの手から救い出すことを 主には、出来ない。」降伏しろ~とヒゼキヤの家来に迫りました。

 

今日は、その続き、37章1~20節です。

 

1-4節: ヒゼキヤ イザヤに祈りを請う

 

 

イスラエルの神を侮辱する総督ラブ・シャケの言葉を3人の家来から伝えられたヒゼキヤ王は怒ります。自分は着ている服を割いて荒布の姿になり、祈るために神殿に入ります。同時に家来たちを、預言者イザヤの所に行かせ、イザヤも神に祈るようにと求めたのです。ヒゼキヤ王は、イザヤに言葉を伝える時、イスラエルの神を「あなたの神」と言っています。神がイザヤと強い関係を持っていること、イザヤの祈りなら、神はむげにはされないとヒゼキヤは感じているのです。

 

5-7節: イザヤの返答 

 

ヒゼキヤの家来が来る前に、イザヤには既に神からことばが与えられていました。アッシリアを恐れるな。ということと、これから起こることです。アッシリアの王は、あるうわさを聞く。神が王の心に恐れの霊を置いておくので、アッシリアの王は恐れて自分の国に引き揚げることになる。さらに国に戻って、剣によって倒される。非常に具体的な内容でした。ヒゼキヤは「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がない」自分の祈りでは、神が働いて下さらないと感じていましたが、既に神は働いておられたのです。祈り終えてもまだ不安。それは普通の状態です。一生懸命祈ることと、祈りが聞かれたと感じることは別なのです。祈る時、その結果は神に信頼してゆだねるしかないのです。確かに神は働いておられるのです。

 

8-13節: センナケリブ 再度の脅し

 

 

降伏したはずのリブナの町が反乱したのでしょうか。センナケリブ王はラキシュから北に戻ってリブナを攻めていました。総督ラブ・シャケはエルサレムを囲んだ軍隊をそのままに、センナケリブ王の所に赴きます。そこに、「クシュの王ティルハカがセンナケリブと戦うために出て来ている」という知らせがありました。センナケリブは動揺しました。足元では、征服したはずのリブナが蜂起して、遠方からはエジプトより強いクシュがやって来る。大軍で囲んだエルサレムもどうなるか分からない。伝言では不足。王の言葉を書状にして、ヒゼキヤを再度脅そうと使いに手紙を持たせたのです。

 

ここで、イザヤがヒゼキヤ王に伝えた預言は成就しました。あるうわさとは、クシュが攻めて来るという情報。センナケリブ王の心に恐れの霊が働いて、王は早々に帰国することを考え始めたのです。

 

14-20節: ヒゼキヤの祈り

 

 

センナケリブの手紙は、イスラエルの神を侮辱するものでした。ヒゼキヤは既に「アッシリヤを恐れるな。アッシリヤは自分の国に引き上げる。」という神のことばをイザヤから聞いて、だいぶ落ち着いていました。

ヒゼキヤは神殿に上って、センナケリブの手紙を主の前に広げて神に呼びかけます。

 

①ヒゼキヤは天と地を造られたイスラエルの神を褒めたたえます。

②生ける神であるイスラエルの神を、何の力のない木や石の神と同じに扱うセンナケリブを非難します。

③そして、私達を救って神の名誉を守ってください。と祈るのです。

 

それまで、ヒゼキヤ王はイスラエルの神を「イザヤの神」と呼んでいましたが、ここでは「私たちの神」、「あなた」、「主よ」と呼びかけ方が変わっています。しかも短い祈りの中で8回も呼びかけています。

 

アッシリアの軍隊に囲まれ、アッシリア王の厳しい手紙を広げながら、神にむかって語り、祈る中で、ヒゼキヤ王の心に、落ち着きと平安が広がっている様子が感じられます。祈る時、現実の世界とは違う、神のふところに身を置いているという感じです。

 

ヒゼキヤはこれまで高い所にある祈る場所、祭儀を行う場所を全て取り払って、エルサレムの神殿一つにして来ました。その神殿で心を尽くして祈る祈りを通して、エルサレムは救われることになるのです。

(小室 真)

 

21-38節

21節:祈りへの応答

 

イスラエルの神はヒゼキヤ王の祈りを聞いておられました。当然皆さんの祈りも神は聞いておられるのですが、神はイザヤに言って王の所に使いを送らせました。神が確かにヒゼキヤ王の祈りを聞いたと伝えたのです。ヒゼキヤ王は驚き、喜んだと思います。王の祈りへの答えが2節から35節まで語られます。最初は、アッシリアの王センナケリブについてです。

 

22-29節:センナケリブについて

 

 

「おまえ」とはアッシリアの王センナケリブのことです。センナケリブはヒゼキヤ王に「イスラエルの神にだまされるな。イスラエルの神がエルサレムを救うことは出来ない。」とイスラエルの神をののしっています。そして北イスラエルや南ユダの町々を滅ぼし、略奪したこと、エジプトを攻めたことは自分の力だと自慢しています。

しかし、それによってセンナケリブは、エルサレムの住民からあざけられることになるのです。すべては、イスラエルの神が昔から計画し、準備して、成し遂げてきたことです。アッシリアはそのために使われたに過ぎません。神はセンナケリブが立つ時、座る時、見ておられます。神に挑んで来たことも分かっている。だから、無理やりにでもアッシリアに引き帰させる。というのです。

 

30-35節:エルサレムについて

 

 

ここの「あなた」はヒゼキヤ王です。アッシリアが引き上げて最初の2年は収穫できないが、3年目からは大きな収穫が得られる。ぶどう畑も収穫できるようになる。ユダの人々の生活は安定する。そこで働く人々の力の上に、神が働かれるのだと言うのです。そのために、エルサレムを囲むアッシリアの軍隊を都エルサレムには侵入させない。イスラエルの神が守る。アッシリアをもと来た道へと引き帰らせる。と約束されるのです。そして、この預言が成就する様子が次です。

 

36-38節:預言の成就

 

 

今までの預言が成就した出来事は、たった3節、36-38節のなかにぜんぶ記録されています。この出来事は、驚くほどの奇跡ですが、聖書はさらっとしか書いていません。奇跡的な出来事以上に、聖書が伝えようとしているものがあるからです。それは、神のことばと、神に従えない人に対してあきらめることなく働かれる神の姿、その交わりです。

 

この時の感謝をこめたヒゼキヤ王の信仰告白が詩篇46篇だと言われます。味わってみましょう。

 

 『神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。

 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ、海のただ中に移るとも。

  たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。セラ

  川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。

 神はそのただ中におられ、その都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。

  国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。

 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ

 来て見よ。【主】のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。

  主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。

  「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」

  万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ』

 

31節で、神に救いだされた者たちは、「下に根を張り、上に実を結ぶ。」と言われます。神の熱心が一人一人のうちに働いて栄えるのです。パウロは第一コリントの手紙3章6,7節で「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」と書いています。

 

私たちは草花の成長を見る時、神の御業だと感じます。人の成長も同じことです。私たちの成長は、神の御業なのです。下に張る根は人には見えませんが、地の深い所から水や養分を吸収できるように育ち、その幹が強い風にも耐えるようにするのです。

 

上に結ぶ実は、自分を飾るものではなく、人々を豊かにするものです。さらに地に落ちた種は次の世代へと広がっていくものです。皆さんの隠れた所で祈る祈り、忍耐する力、周囲を豊かにする何気ない笑顔や優しいことば、時宜を得たみことば。それは、神の子イエス様、聖霊様が、お一人一人と交わって、成長させられた、根であり実なのです。私たちが年をとっても、主は私たちに力を与え、育て、人生を豊かにして下さるのです。

(小室 真)