13-27章では、ユダの周辺国への預言と、世界を治める主が来られることが語られてきました。28―37章では、神の畑であるユダへの神の思いが語られています。
1-6節:民の残りの者に力があたえられることが書かれています。
北イスラエルが、アッシリヤやエジプトに振り回された時、国の指導者達は、世の常識に縛られ、心を奪われ、欲にも支配されて、正気でない状態、酔いどれと表現されています。栄華を誇っていたエフライムの人々は、殺され、奴隷にされアッシリヤに連れていかれました。
5節の民の残りの者は、12部族の残り、ユダ族とベニヤミン族です。彼らは南ユダとして残されました。神は彼らを栄えさせ、力を与えてくれます。
7-13節:不従順なユダの祭司と預言者について語られています。
南ユダの祭司や預言者たちも北イスラエルと同じように、世の常識に縛られ、心を奪われ、欲に支配されて、正気を失っています。汚れたことばで反対する者を攻撃していました。特に、それは神のことばを預かったイザヤに向けられました。『ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル』、これはヘブル語のアルファベット、ツェデはこう書く、コフはああ書く、ほらもうちょっと、こらもう少し。と子供に文字を教えるようすをイザヤのことばだと言っています。イザヤの預言が、幼稚な教えだと馬鹿にしているのです。
「ここに憩いがある。疲れた者を憩わせよ。ここに休息がある」と大切なことを語られる神のことばは、祭司や預言者にとっては舌がもつれた外国のことばに聞こえているのです。このままでは彼らは罠にかかって捕らえられてしまいます。
具体的には、祭司や預言者たちは、アッシリヤの脅威に備えるために、エジプトに頼って、契約を結び、目に見える安心を求めていたのです。
14-22節:神がシオンに要石を据えられること。
祭司と預言者たち、エルサレムを治める者たちは主張します。「エジプトと契約し同盟を結んだ。これでアッシリヤに負けることはない。今までも強国を頼って生き延びてきたのだ。」神は、エジプトを死、黄泉と呼び、アッシリヤを洪水、強国との契約をまやかしと表現します。
そして神は、ユダに救いの道を示されます。16-17節です。
「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎(いしずえ)として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。わたしは公正を測り縄とし、義を重りとする。雹はまやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。」
イザヤが預言を語ったとき、神がシオンに据えられた一つの尊い要石として、具体的なものは見当たりません。挙げるとすれば、アッシリヤに対峙したヒゼキヤ王の心の中に置かれた神への信頼でした。17節の「わたしは公正を測り縄とし、義を重りとする。」は、神が公正と義によってみわざを行われるということです。
ここでは、滅亡の危機にあるユダの救いを預言していますが、もっと広い意味がありました。滅亡の危機にある世界の救いとして神はイザヤに預言させているのです。詩篇118篇でこの要石が世界の救いとなることが歌われ、更にマタイ21:42で、イエス様が荒らされたぶどう園のたとえをしたとき、ご自分がその捨てられた要石であることを話されました。
更にパウロは、エペソ人への手紙2章20-21節で「神の家族は・・使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。」と教えています。
神の救いを実現する要石の預言は、イエス・キリストのことを指し、イエス・キリストによって成就したのです。
礎(いしずえ)とは何があっても動かされないものです。マタイ4章でイエス様が40日の断食をされたことが書かれています。断食の後、体も心も弱っているときに、にサタンの誘惑を受けましたがイエス様は神のことばから揺れ動くことがありませんでした。
試みを経たとは、断食の時のサタンの試みのことだけではありません。イエス様は、神の子であるのに人として不正と苦しみと悲しみに満ちたこの世にこられました。愛する弟子たちに裏切られ、救おうとしている人々から非難され、裏切られ、ののしられました。強烈な孤独です。肉体的にも罪人としてムチ打たれ、十字架の苦しみを受けて死なれたのです。それでも神が愛してくれていること、自分の苦しみによって人が救われること、この神への信頼は揺らぐことがありませんでした。
たった7文字の「試みを経た」には、ことばでは現わせない重い痛みを含んでいます。
「これに信頼する者は慌てふためくことがない。」
このような試練を受けて、よみがえりという神の奇跡を示されたイエス様が私たちの礎なのです。慌てふためくことなく、神の救いを信頼して良いのです。
(小室 真)
神の救いは、「ペラツィムの山での時のように。」また、「ギブオンの谷での時のように」奇跡を起こされるとイザヤは言います。これは、サムエル第二5章17-20節と22―25節に書かれた出来事です。ダビデがイスラエルを統一する王となったとき、ペリシテが攻めて来ました。2回にわたって、神の奇跡的な救い、神が戦われるという経験をしました。そしてダビデは圧勝したのです。
今回もこのような奇跡が与えられるとイザヤは言います。しかも、アッシリヤ軍の全滅というものでした。でも人々はその神の英知を疑っています。そこでイザヤは農作業の知恵を通して神の英知を教えます。ここではウイキョウやクミン、各種麦の種まきと収穫の知恵が語られています。
ウイキョウは、多年生のセリ科の植物で大変強く、繁茂して、たくさんの種子をつけます。種はスパイスやパン生地に使われます。クミンも同じセリ科の植物で、古くから栽培されているスパイスで、薬用、美容、食卓での薬味として用いられています。小麦はパンに、大麦はパンやビールに、裸麦は、大麦の中でも皮がはがれやすい種類で糖質が低く、食物繊維も豊富、水分量が多いという特徴があります。
24-25節は種まきについてです。外から見ると農夫はただ土地を耕し、土地を起こし、土地をならし、その労働の中に知恵などないように見えます。実際には、穀物に合わせて種まきの方法が違います。ウイキョウとクミンは特に気を使うことなく、ならした地にただ蒔くのです。小麦は畝をつくってその上に植えます。大麦は特定の場所に・・・連作障害を防ぐために場所を変えながら作付けしたのでしょう。裸麦は畑の境に植えます。植えるというのは、ただ種をまくのではなくて数センチ穴を作ってそこに種を入れるのです。これらは農夫に与えられた神の知恵なのです。
27-28節は収穫についてです。食用とするのに、穀物の実は皮から外す必要があります。脱穀です。実が壊れやすい、ういきょうとクミンには脱穀機や車を使いません。杖や棒でたたいて殻を取ります。麦には脱穀機や車を使いますが、作業を馬任せにしないで、種が砕けないように細心の注意を払うのです。
収穫を上げるための農作業の細かな工夫には驚かされます。これが紀元前700年、今から2,700年前です。人々は、どうやってこの摂理を知ったのでしょう。現代人よりも知恵が豊かではないかと思うほどです。しかもエルサレムに住む貴族出身の預言者イザヤが農作業に詳しいことにも驚きです。イザヤが、「これも万軍の【主】のもとから出ること。その摂理は奇しく、その英知は偉大である。」というのには納得です。
私たちの生活を支える食べ物を豊かにするには、どのように種をまき、どのように収穫したら最も良いのか、それは神の摂理のうちにあるのです。同じように、国についても、また人についても、どのようにして豊かに実をならせるか神はご存じです。
だからイザヤは言います。23節「私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを注意して聞け。」
一人一人その環境、状況は異なりますが、28章16節にあるように、神がシオンに据えられた試みを経た石、尊い要石に信頼することこそ、私たちが豊かに実をならす奇しい摂理、偉大な英知なのです。
(小室 真)
