27章は、終わりの日に、サタンであるレビヤタンを主が倒した時、ユダの地で歌われる歌です。2-6節に、麗しいぶどう畑の平和。7-9節に神がイスラエルの民を赦すこと。10-11節に自分の力を頼る者の末路。12-13節に失われていた者がエルサレムに集められて礼拝することが預言されています。
2-6節の「麗しいぶどう畑の歌」は、イザヤ書5章の「主が愛するぶどう畑の歌」と対をなしています。
イザヤ書5章では、神がイスラエルというぶどう畑を愛し、面倒を見て来たのに酸いぶどうしかならなかった。私はぶどう畑を荒れ廃れるままにして茨やおどろが生い茂るところとなる。と主の怒りと悲しみが歌われていました。
27章2-6節では、主が麗しいぶどう畑を見守り、茨とおどろを焼き払う。神はもう怒ることはなく、主の民は、主と和解して、その畑で、花を咲かせ、実をみのらせるという希望に満ちた歌になっています。
しかも最後の6節では、果実が豊かに実るのは、「世界の面(おもて)」となっています。麗しいぶどう畑は、イスラエルという地に留まらず、世界中に広がりを持っているのです。
同じぶどう畑を歌った歌イザヤ書5章が、27章に大転換したのには何があるのでしょうか。
そこには、「その日」、神が計画されていることが隠されているのです。それが分かるのは詩篇の80篇です。これもぶどう畑の歌です。イザヤ書のぶどう畑の歌は、神からのことばでしたが、詩篇80篇は、民が神に向かって叫ぶ歌になっています。詩篇80篇8節から18節です。
詩篇80篇に描かれた状況は、イザヤ書5章に書かれた悲惨な状況と同じです。神は愛したぶどうの木をエジプトからカナンに植え替え、地を整えられたのに、石垣は破られ、イノシシに食い荒らされ、木は切り倒され、火で焼かれています。その原因は16節「それは火で焼かれ切り倒されています。民は御顔のとがめによって滅びています。」にある、「御顔のとがめ」でした。イスラエルが神に背いてとがめを受けたのです。そこで注目したいのは、17―18節です。イスラエルの民は主に救いを求め、主の御名を呼び求めています。
「あなたの右にいる人の上に御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に御手が、ありますように。」
「私たちはあなたから離れ去りません。私たちを生かしてください。私たちはあなたの御名を呼び求めます。」
「神の右にいる人」、「人の子」とは、十字架の死からよみがえったイエス様のことです。よみがえられたイエス様は神の右に座しておられます。そこは、神の長子が座る席です。神が右手を人の子の上に置かれているのは、神がその子を愛し、相続人として祝福されているのです。さらに、神の民である私たちが、イエス様から離れないことで、神が生かして下さると信じる信仰告白です。
その日、キリストが現れ、キリストを信じる者が求める時、イザヤ27章にあるように、麗しいぶどう畑で、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界中にその実をならせることになるのです。
ヨハネの福音書15章5-7節でイエス様がぶどうの木のたとえを話されています。
これはイエス様が何の意図もなくぶどうの木をたとえに使ったのではありません。イエス様は詩篇とイザヤ書から話しています。イエス様の言われた、「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまる」
これはイザヤ27:5「わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。」ということです。
ご自分がぶどうの木であると言われたのは、根をはるヤコブの子孫だということです。
イスラエルが麗しいぶどう畑となった転換点、詩篇80篇17節
「あなたの右にいる人の上に御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に御手が、ありますように。」この出来事によって酸いぶどう畑が、麗しいぶどう畑に変えられるのです。イエス様は、自分が「人の子」であることを告白し、自分は「神の右の座に着く」(ルカ22-69)と宣言しています。
更に「私たちはあなたから離れ去りません。私たちを生かしてください。」と詩篇で民が祈るように詩篇の民の願いは、イエス様に向かって歌われました。
イザヤ書27章のイスラエルの救いは、詩篇の人の子への願いによって実現することが預言されていたのです。
イザヤ書では「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす。」と預言されていました。
イエス様は、「人の子」に求める人は多くの実を結ぶと言われ、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」と教えているのです。イエス様は、旧約聖書で約束されていることを、そのまま話されているのです。
(小室 真)
