イザヤ書 12章



1-12節

11章では、エッサイの根株から生えた若枝が実を結んだ時、平和な世界が来ると預言されていました。その若枝とはイエス様のことでした。続く12章は、この恵みに対するイスラエルの喜びの応答です。

 

12章の概要はこうです。自分から離れたイスラエルの民を、神は怒られました。でも、その怒りは去り、慰めてくださった。もう、私たちは神の救いから離れない。その救いの泉から水を汲んで、喜びにあふれている。主に感謝して、主の素晴らしさを全地に告げよう。というものです。これは、ダビデの歌、詩篇と響き合っています。

 

たとえば、詩篇103篇では、

「主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖(あがな)われる。」

・・・主が、私たちの咎を赦して、救い、恵みを与えて下さる方だと伝えています。

 

また、詩篇36篇では

「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに私たちは光を見るからです。

注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人たちに。」

・・・いのちの泉は主の居られる所にあって、恵みの水が主を知る者に注がれると歌っています。

 

さて、イザヤ12章3節、「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。」これは、ヘブル語では、「マイム・ベサソン」「マイム・ベサソン」です。フォークダンスのマイムマイムの歌詞になっています。

 

イスラエルの3大祭りのひとつに仮庵の祭りがあります。これは、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出してくれた神への、感謝の祭りで、モーセの時代からずっと続いています。イザヤの後の時代になると、この祭りの最後の大いなる日に、「水取りの儀式」が加えられるようになりました。それは、このイザヤ書12章から来ています。そしてこの歌がその儀式で歌われるのです。

 

3節の「救いの泉から汲む水」は、祭りでは、救いの象徴としてシロアムの池から汲んでくるのです。

 

仮庵の祭りの、終わりの日の出来事が、ヨハネの福音書7章37~41節にあります。

『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」・・・このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。』

 

これは仮庵の祭りの終わりの日、「水取の儀式」での出来事です。祭司たちが神殿からシロアムの池まで下り、金の壺に水を汲んで戻ってきました。ラッパとシンバルが鳴る中で、その水が祭壇に注がれると、人々は『喜びながら水を汲み出そう。救いの泉から。』と歌いました。歌い終わったとき、突然イエス様がスックと立ちあがりました。驚く群衆の目がイエス様に集まります。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」イエス様の威厳のある、大きな声が響きます。静まり返った群衆の中に「預言者」「キリスト」という、ささやきが広がっていきます。

 

異邦人の私たちには、ヨハネの7章のこの記事は、イエス様が唐突に大声を出しただけの出来事に見えます。詩篇やイザヤ書が生活に深くしみ込んでいるイスラエルの民にとって、「水取の儀式」の中で、イエス様のことばを聞いた時、この方が「イスラエルの聖なる方」「私たちの中におられる大いなる方」だと考えたのは自然なことでした。とはいえ、居合わせた人々には衝撃的な出来事だったのです。

 

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

乾燥して荒地が多いカナンの地では、のどの渇きは致命的です。水は文字通り「いのちの水」です。イスラエルの民は求めていました。のどの渇きをいやす水を泉に求めるように、心の渇きをいやす救いを、いのちの泉という神の愛に。それはダビデが神に求め、神の中に救いの泉を見出したからです。イザヤは、その救いの泉は、イスラエルの大いなる方のもとにあると預言したのです。

 

私たちの多くの問題は心の渇きです。神の愛で心の渇きが癒されれば、不安も、恐れも、悲しみも、焦りも、心にぽっかり空いた穴も、その水で満たされ覆ってもらえます。その喜びを知った人は、他の人の渇きも潤すように、その泉から水を汲み続け、神の愛の御業を伝え、ほめたたえるのです。

渇いている者は、だれでも大丈夫。主のもとでいのちの水を飲み、救いにあずかることが出来る。大声をあげて喜び歌うのです。

(小室 真)