ローマ人への手紙 8章



1-4節

八木重吉の詩「静かなる風景」の中にこんな一節があります。

「私の心には、静かな風景がある。

私の心の風景を、寂しい耶蘇(ヤソ)が歩んでいる。」

(耶蘇=イエス・キリスト)

皆さんの心にはどんな風景があるでしょうか。

 

さて、7章の最後で、パウロは「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」一人の人の中に、神に従って生きる者と、肉に従って生きる者がいて、心の中で戦っている姿を描いていました。肉に従う自分がいる不安をよそに、パウロは「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と1節で明言します。

 

「心では神の律法に仕えている」つまり、聖書のことば、イエス様のことばに同意して、それを良いものと認めて生活しているなら、身体が罪の律法に仕えていても、罪に定められることはないというのです。なぜでしょうか。それは、イエス様が、人の罪を贖うために人となって地上に来られて、十字架に架けられて死に、よみがえったことによって、罪を処罰されたからです。

 

本来律法は霊的なもので人を救うことが出来るものなのに、肉によって、つまり罪と死によって律法自体が弱くなって、人を救うことが出来なくなってしまった。そこで神は、私たちの心に恵みに基く神の律法を下さいました。そして肉に働く罪と死の律法から力を奪ったのです。これが神のなさったことです。

「罪と死の律法」は罪ある者を罰して死を与えるものなのに、罪のない神の子を罰して死を与えてしまった。大間違いを犯してしまいました。更に、死を与えたイエス様を、神がよみがえらせたことで、「罪と死の律法」は死の力を奪われてしまいました。

 

そうはいっても、私たちは、自分がいのちの御霊の律法の下にいること、罪と死の律法から解放されていることに確信が持てないのではないでしょうか。それは、既にイエス様が死からよみがえられて勝敗は決まっているのですが、罪と死の力はいまだに残っていて私達に働いているからです。

 

ここで、パウロは、「律法の要求が満たされる」という面白い表現をしています。神の律法を喜び、少なくとも心では善を願って御霊に従っていこうとすることで、私たちの内に少しずつその確信が満ちてくるというのです。神の律法は、神を愛し自分自身のように隣人を愛せよということばの中に集約されています。時間をかけてその律法が私たちの心を潤おしていくのです。

( 小室 真 )

 

5-11節

8章1-4節では、イエス・キリストにある者には、御霊の法則が働いて、罪に定められることはないとパウロは説明していました。5-11節は、その御霊の法則についてさらに説明しています。

 

5―7節にある、肉の思い、御霊の思いとは何でしょうか。

肉の思いの中心は、律法を守らなければ裁かれる。最終的には死をもって裁かれる。裁かれないように律法を守ろう。自分に対しても、他人に対しても死という恐怖が支配しているという思いです。

 

一方で、御霊の思いとは、愛と恵み、赦しによる律法の奨めです。神に愛されていることを深く思って、その神のことばを守ろう、そこには神の恵みがある。守れなかったとしても、そこには神の赦しと愛があることを信じる。という思いです。「御霊の思いはいのちと平安」という6節のことばがぴったりくるのです。

 

9-11節に、御霊の思いに留まる人の心には、キリストの御霊が住み、神の御霊が住み、聖霊なる御霊が住むと書かれています。同じ御霊について3つの言い方をしています。興味深い表現です。

 

同じ御霊に3つの面があります。イエス様を甦らせた神が送られた御霊であること。神によみがえらされたイエス様の思いを担っている御霊であること。よみがえったイエス様が神のもとに行くことで私達に送られた、よみがえりを証明する御霊であること。

 

パウロは、御霊の「よみがえり」の力を強調しています。この御霊に包まれていることで、「死」は私達に力を及ぼすことが出来ない、たとえ死ぬべきからだであっても、この御霊によって私たちは生かされるのです。御霊が私達の中に住み、私達を包んでくれていると知ることで、「いのちと平安」のなかで安心して過ごせるのではないでしょうか。

 

八木重吉が幼い娘の姿をうたった詩があります。

「いのちと平安」を感じさせてくれます。

 

「ほんとうによく晴れた朝だ

桃子は窓をあけて首をだし

桃ちゃん、いい子 いい子うよ

桃ちゃん、いい子いい子うよつと歌つてゐる。」

 

「桃ちゃん」を自分のお名前に替えて詠んでみてください。

( 小室 真 )

 

12-17節

パウロは、私たちが「神の相続人」であると言われました。この相続人について考えていきたいと思います。

神の子どもと神の相続人には大きな違いがあるように思います。

 

幼い子どもは親のふところで何の心配もなく生活するものです。親に言われてお手伝いをすることもあるでしょう。親の愛情に育まれていろいろ学びながら成長していきます。成長していくうちに、家の家計や、土地や建物、他のメンバーについて責任の一端を担うようになってきます。

 

家は親の所有物で自分の所有物ではないけれど、家の問題に責任をもって行動する者は相続人です。自分で気が付いたことを、親に相談しながら自分の問題として取り組んでいきます。

 

パウロは、私たちのことをキリストとともに共同相続人だと言います。相続するのは、神が創造されたこの世界です。全部を自分一人で勝手に管理するわけではありません。常に、イエス様のもとで多くの共同相続人の仲間と共に管理していくのです。

 

その世界は、身の回りの本当に些細なことから、地球規模の問題まで広がりを持っています。この世界は被造物すべてを含んでいるからです。簡単なものもあれば、難しいものもあります。苦難が伴なうものもあるでしょう。

 

すぐにやらなきゃ。自分はこうしたいけどどうしよう。これは自分がやらない方がいいかな。などと祈って相談できるのです。イエス様は知恵を与え、勇気を与え、仲間を与えて、私たちを支えて下さいます。苦労の中で共に苦しみ、成功した時に共に喜んで下さる方がおられることは私たちの心の慰めになります。

 

相続人とは、神の子どもから成長した、自立したキリスト者のことです。

(小室 真)

 

18-25節

前の節で私達が「神の相続人」であることを学びました。相続人は栄光を得るために苦難に立ち向かわなければならないことが語られて来ました。パウロはその苦難を「産みの苦しみ」と表現しています。

 

すべての被造物が「産みの苦しみ」を覚えているのです。神様から世界を管理するように言われている人間が神に従うようになるまで、この世界には苦しみが広がります。被造物は早く神様の支配される世界にしてもらいたいと望んでいて、キリストの共同相続人、神の子たちが増えてくれることを待ち望んでいます。人間はそのことをなかなか理解出来ません。

 

神の導きで「御霊の初穂をいただいている私たち」つまりイエス様を信じた私達は、キリストの共同相続人とされ、体の疲れや病気、いのちの心配をしなくても済む霊のからだを得る望みもいただきましたが、その日の来る迄、苦しみはあるのです。

 

私たちに与えられる栄光は、それまでの苦しみとは比べものにならないほど素晴らしいとパウロは言います。NTライトという神学者は、それを山登りに喩えています。山を歩いている時に「絶景」と書かれた標識を見つけ、信じて山道をかき分けていくと、茂った草木、ぬかるみ、急な上り坂、下り坂があって、汗をかき、苦しみ、息も切れるかもしれません。でも目の前が突然開けて、眼下に美しい山谷、大きな滝と虹が目に飛び込んできたらどうでしょう。その絶景は、それまでの苦しみとは比べ物にならない程だと知るのです。

 

標識を見つけただけでは、それがどんな景色か分かりませんから、そこに至るまでの苦難を大きなものと感じるのですが、絶景を見て初めてそこまでの苦労が報われるのです。本当に素晴らしい景色なのかと疑う方もいるかもしれません。その栄光は、このすばらしい世界を創造した方が、神の一人子を人として地上に送り、十字架の死を通して、よみがえらせて、完成を目指している栄光です。それは私たちの想像を超えた素晴らしいものだと思うのです。

 

うめきつつも待ち望む価値が十二分にあるものだと思うのです。

( 小室 真 )

 

26-28節

私たちが「神の相続人」であることを学びました。相続人は苦難(くなん)に立ち向かうことになります。パウロはその苦難をうめきと言いかえています。

 

『人間の心を探る方』とは、神様のことです。神様は人の心の中に何を探しておられるのでしょうか。知って犯した罪や、知らずに犯した罪や、神様のみこころに従えないことや、悪い思いでしょうか。そうではありません。そういった苦しみがあることはもうご存じです。

 

それらによって、悲しみ、苦しみ、いたんでいる心の中のうめきの声に耳をかたむけておられるのです。私たちが意識していないことにも、聖霊様がそれに気付いてうめいて、とりなしておられるのです。神様はその聖霊様のかすかな声を聞いて、全てが益となるようにと働いてくださるのです。

 

自分のことばや、行動に対して、身近な人のことばが心に刺さることがあります。他の人や自分自身の評価で、劣っていると感じさせられることがあります。自分に失望することは数え切れません。

 

そんな心を押さえつけている問題に自分で気がつけば、自分の言葉で何とか祈ることが出来ます。でも自分では気がつかない時、ことばに出来ない時、聖霊様は私達の柔らかい心から血が流れていることを知って、うめきの声を上げてくれるのです。

 

神様は聖霊様のうめきを聞いて、私たちをなぐさめるために、傷のあるところに手を置くために、全てのことを働かせてくださいます。それは、暖かい日ざしだったり、さわやかな風だったり、鳥の声や、誰かの笑顔かもしれません。神様は働いておられます。

( 小室 真 )

 

29-30節

「神の相続人」にしていただいた私たちに、神様がすべてのことを働かせて益としてくれることでした。私たちは、どのようにしてその相続人に選ばれたのでしょうか。

 

神様は選ばれた者たちが皆、イエスを兄と慕(した)って、兄であるイエスを見習っていくようにと集められています。これが第一条件です。

 

29節の「御子のかたちと同じ姿」というのは、イエス様と同じ外見という意味ではなくて、神様に対して従順で、忠実で、へりくだっているイエス様の心の姿のことです。

 

「あらかじめ知っている」「あらかじめ定められた」というのは、最初はイエスを兄と認めない者やイエスを見習うようにはとても見えない者でも、この子は、きっとイエスを兄と慕うようになると神様が知っておられた。という意味です。神様は人の自由意志を大切にされていて、最初からその人の運命を決めつけてはいません。その自由意志を見越して、イエス様を兄と慕うだろうと知ってその人を招かれたのです。

 

そのように神様に招き入れられ、罪のないものとされ、イエス様の兄弟、友とまでしていただいて、栄光まで与えられます。自分の力で得るのではなく、次から次へと与えられるところがすごいです。

 

この栄光とは何でしょうか。実際に見て、聞いて、触れて、感じる神様の愛と知恵と力です。神様の栄光に触れると「生きていて良かった」と感じられるものだと思います。

 

取税人のザーカイの家にイエス様が突然、訪れることになりました。ザーカイは大喜びです。それは栄光でした。

井戸端でイエス様に話しかけられたサマリヤの女は、メシヤを知って大喜びで町の人に伝えに行きました。それは栄光でした。皆さんも神様から受けたその栄光について振り返ってみましょう。

( 小室 真 )

 

31-39節

アントニオ猪木さんは闘魂の人です。常に力強く闘志に燃えて、リングの上でいろいろな格闘家と戦い、政治の世界でも戦いました。最後は病の痛みと戦い、弱くかぼそくなっていく自分の声を元気な声にしようと戦っていました。本当に『燃える闘魂』の人生でした。知らない相手のふところに飛び込んで、相手を知る為に戦ったのでした。

 

パウロの人生も、壮絶な戦いの人生でした。ローマ人に鞭打たれ、ユダヤ人に石で打たれ、盗賊に襲われ、難破、飢えと寒さ、教会に入り込む間違った教えと心労。第二コリント11章23節以下に書かれています。パウロは、神の子として地上に来られたイエス様が、十字架にかかって死なれ、よみがえった事実とその神の愛を、何も知らない多くの人、高貴な人にもさげすまれた人にも伝える為に戦ったのでした。

 

パウロは、キリスト者の戦いについて語っています。

35節にあるように、当時のキリスト者の敵は、苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣でした。キリスト者は、それらの前に引き出された羊のように弱弱しい存在でしたが、彼らを愛しておられる神の力によって、彼らをイエス様から引き離すことは出来ませんでした。キリスト者の戦いは、キリストの愛から引き離そうと働くものに打ち勝ち、まだ目に見えていない救いの望みに向かう為の戦いです。

 

アントニオ猪木さんがプロレス引退の時に読んだ「道」という詩がテレビで紹介されていました。

『この道を行けばどうなるものか

危ぶむなかれ

危ぶめば道はなし

踏み出せば

その一足が道となり

その一足が道となる

迷わずいけよ

行けばわかるさ』

荒けずりですがリアリティーのある力強い詩です。

 

信仰がなかったとき、どこに向かうのかと、その一足をふみ出すのに、不安と疑いでいっぱいだったように思います。キリスト者にとって、信仰の一足はアントニオ猪木さんの一歩より、踏み出しやすいのではないでしょうか。

 

なぜなら、この道が、私たちを愛しておられる神様に向かう道だからです。しかも私たちは一人ではありません。聖霊様が私たちを助け、イエス様が神様の隣で取り次いで、神様が私たちの味方になって下さるのです。目的地に光が、足元にともしびがあるのです。主キリスト・イエスに示された神の愛につながるこの道から引き離すことは、何ものにも出来ないのです。

 

実に、私たちの本当の敵は、目に見えるものではありません。本当の敵は、恐れや不安や疑いに動かされてしまう私たちの心です。天地を作られた神様はイエス様を人として地上に送り、その十字架の死をこえて、よみがえらされました。それは私たちを愛して救うためでした。

 

この神様に愛されているという確信に留まることで、どんなことにも心を動かされず、圧倒的な勝利者になるのです。

( 小室 真 )