ローマ人への手紙 7章



1-6節

ユダヤ人のキリスト者が、モーセの律法から離れて、イエス様のもとで生きていくことの正当性を示すのに、パウロはユダヤの結婚にたとえて語り出しました。当時のユダヤ人には分かり易いでしょうが、現代の私たちにはかえって難しい。ややこしいですが、チャレンジしてみましょう。

 

難しさの理由その1、「律法」という言葉です。夫と妻の関係を「律法」と言い、また妻を支配していた前の夫も「律法」にたとえられています。これについては、2、3節の妻を夫に結びつける律法は「契約」と読み替えると分かり易くなります。

 

難しさの理由その2、死んだのが夫だったり、妻だったり。混乱します。パウロは、たとえ話では、妻を支配する前の夫が肉体的に死んだと語り、ユダヤ人に対しては妻であるあなた方は、キリストを通して霊的に死んだと言います。バプテスマを通してイエス様の十字架の死にならって霊的に死んだことで、律法の支配はユダヤ人に及ばなくなった。つまり夫である律法は妻であるユダヤ人に対して死んだのだというのです。

 

このように整理すると、2~6節は少し分かり易くなります。イエス様の十字架とよみがえりによってユダヤ人は律法に対して死んだ者となった。もはやユダヤ人は律法に支配されることがなくなり、死者のなかからよみがえった方の支配のもとに置かれることになった。これは神の民に与えられた契約にかなったことだとパウロは言うのです。

 

契約の民として生きることで自分を保っているユダヤ人にとって、古い文字、文字に書かれた通りの律法から離れることに不安があることを、パウロは理解していました。新しい御霊、バプテスマを受けてキリストに仕えて行くことが、神の契約にかなっていることを説明されて、ユダヤ人は安心したでしょう。

 

私たち異邦人には、神の契約という感覚を持ちにくいですが、次のことは、ユダヤ人にも異邦人にも通じることです。それは、今まで自分の義を通すことで実績を積んできた者が、イエス様に仕えて行くことで、神の実績になっていくのです。自分を守ろうと人を裁いていた者から、いのちのことばで神の赦しを証し、神を賛美する者に変えられていくのです。自分の実がどちらなのか振り返ってみましょう。

(小室 真)

 

7-14節

暑さが続きます。小2のA君はコンビニで友達がアイスを食べているのを見てどうしても欲しくてたまりません。家にお母さんがいなかったので、引き出しから300円取って、幼い弟を連れてコンビニでアイスを買って食べました。引き出しから300円取る時、心臓がドクンドクンと大きな音がしましたが、アイスを食べたい気持ちに勝てませんでした。夕食後、「アイスおいしかった。」という弟の一言でお金を取ったことが明らかになって、お母さんに叱られました。A君はボロボロ涙を流して謝りました。

 

1-6節で、「私たちが、律法に縛られていた」と、パウロは語ります。律法を悪く言っているように見えますが、違います。パウロは「律法は聖なるもの。戒めも聖なるもので、正しく、良いもの。」というのです。更に「律法は霊的なもの」だというのです。

 

霊的、肉的とはいったいどういうことでしょうか。霊的とは、神の愛と恵みの下にあること、肉的とは、神の愛と恵みを認めないことです。律法は神が望まれる世界を私たちに教え、それに従うように導くものでした。ところが律法に従えない時、罪は私たちに働きかけて、神の赦しも恵みもないと思いこませます。罪は、私達が神に赦しを求める気持ちを遠ざけ、神から身を隠すように仕向け、神を否定し、嘘を言わせ、更に罪を犯させるのです。

 

律法は、正しいものです。それは自分や社会を守る大切なものです。親の愛の下で律法を犯した時は、叱られはしましたが、何が悪いかはっきりと教えられ、赦されました。親の愛から離れ、社会に出て、人から盗んだら、それこそ厳しい罰と責めが待っています。それが当たり前の厳しい社会は、肉的な世界といえるでしょう。でも、私達を憐れまれる神様がおられることを認めること、罪を贖って下さったイエス様を信じることで、この世界に神の愛と恵みを認めることが出来ます。

 

「そんなに世の中甘くない。」という声が聞こえてきます。でも、神の御子がいのちを捨てることを通して、私達に悔い改めて赦していただく道を与えてくれたのです。律法は霊的なのです。

「キリストは神の御姿である方なのに 、ご自分を無にして 、人としての性質をもって現れ 、 自分を卑しくし 、十字架の死にも従われました 。」(ピリピ2:6-8)

(小室 真)

 

14-25節

14-25節まで「私」がいっぱい出てきます。数えると20か所。パウロが語っているので、当然「私」とは、パウロのことです。ここで解釈が分かれるのは、イエス様に会う前のパウロのことか、イエス様に会った後、回心後のパウロのことかという点です。

 

文章は現在形なので、手紙を書いている時点のパウロと捉えるのが当然のように思えます。でも、「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」とか「私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑んでいる」とか「私は本当にみじめな人間です」とか「肉では罪の律法に仕えている」という表現は、使徒パウロには相応しくない。普通のクリスチャンならいざ知らず、教会で教え、弟子を導いて、書いた手紙が聖書になってしまう程の人なのだから、この「私」は、回心前のパウロの姿で、強調するために現在形で表現していると考える人もいます。

 

この「私」は、回心した後のパウロ自身のことを指しているのではないでしょうか。回心した後の現実の自分の姿が、いかにみじめかパウロは強烈に感じているのです。真の神様と神の子であるイエス様を知って、洗礼を受け、教会に通い、聖餐を受け、聖書を読み、祈っていても、悩み、苦しみ、傷めば、泣き声も上げます。自分を誇りたい衝動にもかられます。神様をたたえること以上に、美味しいものを食べることや、身を飾ることにも心を囚われる。今迄繰り返してきた習慣から離れることも出来ない。更に出来ない人を裁き、そんな自分を裁いている。「肉では罪の律法に捕らわれている。」私は本当にみじめな人間だ。この姿はパウロだけでなく、現実のクリスチャンの姿、私たちの姿です。

 

その姿にパウロは、悲嘆にくれるかと思ったら、自分が「イエス・キリストを通して心では神の律法に仕えている」ことを神に感謝しています。「心で神の律法に仕える」とはどういうことでしょう。それは、聖書のことば、イエス様のことばに同意して、それを良いものと認めている。ということです。だからこそ私たちは自分がみじめな人間なのだと心底思えるのです。だから「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」とパウロは神を褒め称えるのです。自分がみじめだと知ることは、素晴らしいイエス様が私たちと共におられるからなのだと、喜べるのです。 

(小室 真)