ローマ人への手紙3章は神の義です。
パウロは屁理屈に聞こえるような議論を進めます。対立意見をたてては反証していきます。
ローマ書2章後半で、律法を知りながら律法を守ろうとしないユダヤ人たちの姿勢をパウロは非難して来ましたが、1節で、「ユダヤ人の優れている点は何か?」と改めて問いかけます。ユダヤ人は、神から律法がゆだねられていること、そのしるしとして割礼を身に受けていることを誇りとしていました。パウロはそれを優れている点として認めます。
3節で、神がユダヤ人を選んで律法をゆだねたのに、その民が律法を守ろうとしないことで、神に任命責任があるかと問います。「神が全能であればユダヤ人が律法を守るように出来るはずだろう、神が真実な方だと言えないのではないか?」この問いに対してパウロは、律法をゆだねられた者が、律法に従うかどうかに関わらず、神は真実な方であると主張します。神はご自分の力で人を強引に従わせることを選ばず、人の自由意思に任せますが、それでも偽る者をさばくことで、神が真実な方であることは、はっきりします。
5節で「神が真実な方であることを明らかにするために偽る者が役立つのなら、偽る者を裁く神は間違っていないのか? 神の真実性を明らかにするために悪を行なおうとする人がさばかれるのか?」と問いかけます。パウロは、そのような者は当然さばかれるのだと答えます。
この議論を通してパウロが伝えたいのは、人がどうあれ「神が真実な方である」ということです。真実な方とはどういう方のことでしょうか。
申命記32:4 には、「主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」真実とは完全で正しいと言う意味です。また、イザヤ 54:8には、「 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。」真実とは、信頼を裏切らない、約束を守る方という意味です。
「真実の友」も走れメロスのように友人のことを大切に思い、友人を裏切らない人ですね。神は人のことを大切に思い、苦しい時に共に居て、決して裏切らない方です。だから私達はその方に信頼を置くことが出来るのです。
(小室 真)
パウロは3章1-2節で、ユダヤ人のすぐれている点があるかと問いかけ、大いにあると答えていました。9節では、私たちにすぐれた所があるかと改めて問いかけ、「全くありません。」と答えています。先の問いかけは、神が選ばれた民族への問いかけです。後の問いかけは、ユダヤ人を含め一人ひとりに向けられた個人的な問いかけです。そこに人種も民族も性別も職業も貧富の差も関係なく、あなたはどうかという問いかけです。
パウロは、詩篇とイザヤ書のいろいろな所から引用してすべての人は罪の力の影響下に置かれていることを具体的に私達の目の前に示します。
「義人はいない。一人もいない。」自分の身を振り返って、「私は義人です。」と胸を張れる人はかなり少ないのではないかと思います。まあ自分はダメでも、アブラハムやモーセ、無抵抗主義を貫いたガンジーやアパルトヘイトと戦った南アフリカのネルソン・マンデラ、スパーボランティアの尾畠春夫さんは義人と言われてもいいのではないか。と思い浮かべるのですが、パウロは神の義に照らして義と認められる人は一人もいない。とキッパリ言い切ります。
人が考えている義と神の言われる義とは次元が違うのです。だから神の義を人は理解できない。そしてその神に深く頼り、深く神を求めるに至らないのです。
パウロは誰もが持つ体の器官を用いて義人がいないことを具体的に示します。喉、舌、唇、口の働きで分かると言うのです。これは詩編のことばをまとめ直したものです。人はその口を通して、呪い、苦み、無実の人を罪におとしめるようなことば、生活を破壊させてしまうことば、平和な生き方から離れてしまった言葉、神を恐れない言葉を吐き続けているのです。確かに、意識する、しないに関わらず、毎日私達の口から出て来るのはこんな言葉ばかりだと思います。明確な悪い言葉だけではありません。私たちの心にあるものは、口からことばとなって出て来ています
。
私は以前、神様に長い間祈っていたことが叶わなかったときに、ボソッと呟いた「やっぱり・・」という自分のことばに驚いたことがあります。神を信じて頼っていない自分の心の奥底を垣間見せられて恐ろしくなりました。
20節「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」ここでパウロは「義人はいない。」と再度結論付けます。しかし、ここに条件が加わって来ました。「律法を行うことによっては・・・」という条件です。真っ暗な闇の中に一条の光を予感させます。
(小室 真)
20節「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。」パウロは「人はだれも、神の前に義と認められない。」つまり義人はいない。と結論付けましたが、そこに「律法を行うことによっては・・・」という条件を示していました。人が義と認められるには他の方法があるということです。
そして、23―24節に、「すべての人は・・・神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」と言うのです。神の子イエス様が人として来られて十字架で死なれて私たちの罪を贖って下さったことを通して、神の前に人を義とすることが実現したのです。
このことは、律法と預言者たちの書、つまり旧約聖書にしるされていました。創世記22章でアブラハムが主のことばに従ってイサクを捧げようとした時、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」と言われました。ここで、すべての国々を祝福するアブラハムの子孫が約束されました。また、イザヤ49:6でバビロンの捕囚から帰るイスラエルの民に預言して「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」と言われました。ここで、地の果てまで神の救いをもたらす、「あなた」という存在が約束されました。でも「あなた」が誰なのか分かりませんでした。
このように律法の書のアブラハムを通し、イザヤの預言者の書を通し、ユダヤの民に「アブラハムの子孫」、「あなた」と神の呼ぶ方が来ることが約束されていました。その方が今やイエス様としてこの世界に示された。とパウロは言うのです。
パウロは、教師ガマリエルの下で旧約聖書について厳しい教育を受けその内容に精通して、律法を行うことで神の前に義とされると信じていましたが、自分の前に表れたイエス様を知って、この方が神の約束していた方だと信じたときに、旧約聖書が言おうとしていたことを理解したのです。パウロはその感動と喜びを皆さんに伝えたいのです。
(小室 真)
27節で、パウロは律法に、行いの律法と信仰の律法がある。と言います。信仰の律法・・・不思議な言葉です。一方で、行いの律法はピンときます。神様が求められた生き方をするためにイスラエルの民に与えられた行いを正す命令、ルールです。その命令に従うことが出来れば神に認められますし、命令を守ることが出来る自分を誇れるでしょう。でも、律法に背けば罪を犯した者となってしまいます。
信仰の律法はどうでしょう。
アブラハムをカナンの地に導き、そのことばに信頼して従ったアブラハムに祝福を与えました。兄の長子の権利も父からの祝福も奪ったヤコブをも祝福し、エジプトで奴隷となって虐げられていたイスラエルの民を救い出して、約束の乳と蜜の流れる地に住まわせました。このイスラエルを通して全ての民に光を与え、地の果てにまで神の救いをもたらすという神の約束。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という律法の書に語られた、神とその民の物語に神の姿とその約束が描かれています。
これは恵みの約束です。この恵の約束に信頼して信じて従おうとするのが信仰の律法です。そこに誇れる自分はありません。人の誇りは取り除かれた。人の誇りは心の中から外に押し出された。とパウロは言います。
信仰の律法は、イスラエル人もイスラエル人以外にも適用されます。異邦人を含め、戒めが守れない人にも救いを与えるという信仰の律法が、十戒を始めとする律法を確立することになるとパウロは言います。その説明がこれから始まります。
(小室 真)