ローマ人への手紙 13章



1-7節

12章で、パウロは、自分に関することについては、すべての人と平和を保ちなさいと教えていました。13章に入って、社会に関することについて語っています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」と教えています。

 

パウロの時代、ユダヤ教はローマの支配に抵抗していました。異邦人であるローマが神の選民であるイスラエルを支配することにいらだち、ローマに税金を納めるのも不愉快でした。しかしパウロは上に立つ権威に従うべきだと教えました。彼がユダヤ人や他の宗教の信者から暴力を受けたとき、守ってくれたのはローマという権威でした。帝国内は道路網が整備されて、広いローマ帝国内を3回にわたって伝道の旅が出来ました。手紙を何通も各教会に送ることもできました。ローマの権威が自分たちの益となっていたのです。彼らが完全ではないけれども神のしもべとして働いていることをパウロは理解していたのです。

 

1節「存在している権威はすべて神に立てられています。」世界はその権威によって平和が保たれています。警察が、暴力を行う者、盗む者を捉えて罰するので私たちは安心して暮らせます。自衛隊が周辺国からの脅威に対応するので国内の秩序は保たれています。税務署があるので、ルール通りに税金が徴収され、国は予算を立てて公務員の方々が国民のために働くことが出来ます。

 

それでも、権威をもった人が、自分やその仲間のために権力をふるうこともあります。他の国への侵略や、収賄事件や、自分と意見の違う人を逮捕監禁することも起こっています。1~7節はそのような支配者に対する警告になっています。現代であれば、その高い地位は自分の力によって選挙や力で勝ち取ったと考える人もいるでしょう。でも、神が人の上に立つことを許して下さっているのです。その自覚と恐れがない者は、人の上に立っていながら神の権威に反抗し神の定めに逆らうことになるのです。上に立つ者は神のしもべとして、人々の益となるために働くという制約を受けているのです。

 

私たちは、上に立つ権威に従うだけでなく、上に立つ人が神の権威に従っているか見極める目も養わなければなりません。恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。とパウロは勧めています。

ある訳では「優れた権威には従いなさい」と訳されています。

( 小室 真 )

 

8-10節

13章1節で「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」税金を納めるなど市民の義務を守るように、と命じていました。8節の、「何の借りもあってはいけません。」は、お金を借りてはいけないというのではなく、税金を含め市民としての義務をおろそかにしてはいけないということです。「ただし、互いに愛することは別です。」とパウロは言います。

 

権威に従うことは、神に従うためです。神に従うことを大切にしているユダヤ教では、律法として細かい神の定めを守ることで神に従おうとしています。彼らにとって、なんの借りもあってはいけないのです。ここでパウロは神に従うための別の視点を示しました。互いに愛し合うというものです。

 

その視点は、どのように違うのでしょうか。

 

社会的な義務としての税や労務ははっきり金額や内容が決められています。律法も具体的に書かれています。ただそれを守れば良いのです。しかし互いに愛し合うことには、具体的な決まりや範囲がありません。ただ一つ、「自分自身を愛するように」というだけです。自己愛という自分自身を守る範囲で、隣人を愛しなさいというのです。

 

だれにとっても、自分を愛し自分を守ることはとても大切なことです。自分を守るように隣人を守ろうとしたとき、姦淫すること、殺すこと、盗むこと、隣人のものを欲しがることを、行えなくなります。それらは自分の欲望を満たすだけのために、人から奪い、自分をも傷つける行為だからです。だから、自分自身のように隣人を愛すること、つまり自分を愛し、同じように隣人を愛することは、律法で与えられた戒めを守ることになるのです。

 

あなたの隣人を自分自身のように愛することは、貸し借りの関係でも、ノルマや義務でもありません。相手の立場に自分の身を置いて、相手を深く理解しようとすることです。相手にとって人にしてもらいたいこと、してもらいたくないこと、してはいけないことを想像して、自分が出来る範囲で心を割き、時間を割き、持っているものを割く行為です。

 

どうしたら隣人を愛せるようになれるのでしょうか。パウロは更に教えます。次週に続きます。

( 小室 真 )

 

11-14節

パウロは救われるために、「あなたの隣人を自分自身のように愛する」という視点を示しました。どうしたらそのように隣人を愛せるようになるのでしょうか。

 

パウロは、「主イエス・キリストを着なさい」と言います。

もう眠りから覚める時が来たから、寝間着を脱いで、外出着を身にまとい、闇のわざを脱ぎ捨てて光の武具を身に着け、争いねたみの生活から品位のある生き方に変えよ、と言います。

 

闇のわざも、遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活も脱ぎ捨てることが出来るというのは、驚きの発想です。悪い習慣や行動は、切り離せないその人そのものように思っていたのに、実はその人ととはまったく別のもの、切って捨てることが出来るものだというのです。その悪習を捨てるには、どうするのか?「主イエス・キリストを着なさい。」とパウロは言います。

 

では、イエス・キリストを着るとはどういうことでしょうか。

服や着ぐるみを着ているなら、ひとめで何を着ているか分かりますが、イエス・キリストを着ているかどうかは、人の目に見えません。ただその人の雰囲気や行動からキリストが感じられるのです。

 

イエス様は、「人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」と言われるほど、低いところに身を置かれていました。死からよみがえった今も人の痛みに寄り添って下さる方です。

神の子であるイエス様が、姦淫の女に向かって「わたしはあなたを裁かない。」と言われました。

蔑まれていたサマリヤの女に向かって「わたしに水を飲ませてください」とお願いし、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言われました。これはあなたに言われていることばです。

 

あなたが思っている自身の嫌な所、悪い所を、イエス様はそのまま受け入れて、すべてをとても良いと認めてくれました。イエス様は癒し主です。

 

イエス・キリストを着ることは、イエス様の赦し、癒し、慰めの中にどっぷりと浸かったまま生きることです。身をゆだね続け、癒し続けていただいている状態です。イエス・キリストを着ることは、自分の欠点と思っていたところ、痛みや悲しみだったところが、神に祝福されたところ、神に癒され続けているところ、平安が与えられるところになります。

私たちの平安と喜びが、私たちを闇のわざから解き放って、さらに光となって周りを照らすのです。

 

どうしたらイエス・キリストを着ることが出来るのでしょうか。

 

「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)と言われています。ローマ人への手紙では、イエス様をまだ信じない人には、信じてキリストを着るように。信じている人には、すでにキリストを着ていることを思い返しなさい。と呼びかけているのです。

( 小室 真 )