ローマ人への手紙 12章



1-2節

ローマ書も、ついに転換点を迎えました。

1章から11章まで、神の知恵と知識、そのさばき、その道の深さについての教えでした。12章からは実践的な課題に入ってきます。12章の1-2節は12章から15章迄の土台の考え方を示しています。

 

これから始まる各課題への対応は、命令ではありません。パウロは「神のあわれみによってあなたがたに勧める」と言います。ここまで説明してきたように、神のあわれみを感謝して、自分からすすんで行うようにとパウロは勧めているのです。

 

神のあわれみによって・・・神の教会をすさまじい勢いで迫害したパウロが、異邦人への宣教に召されたように。裁判所の庭で呪いの言葉をはきながらイエスを知らないと言い張ったペテロが、よみがえったイエス様に、「わたしの子羊を飼いなさい。」とキリスト者を導く役を与えられたように。かつてはキリストを知らず、また拒否し、反発していた私たちも、神の教会の恵みの中に置かれているのです。すべては神のあわれみによるのです。

 

ここでパウロが勧めているのは二つのことです。一つは礼拝、もう一つは新生、日々新しくされることです。

 

からだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げること、神のあわれみを受けた者にふさわしい礼拝とは、どういうものでしょうか。

創世記22章。アブラハムがモリヤの山で、イサクを縛ったまま祭壇に載せた場面が思い出されます。アブラハムにとってイサクは生きたささげものでした。神はアブラハムの信仰を見たのでした。

私たちも、アブラハムの信仰にならう者として、イエス様を信じることで永遠のいのちが約束されています。私たちのからだとは、イエス様を信じる信仰に基づいた、思いも生活も習慣もすべてを含んだ私たちそのものということが出来ます。それを神にいただいたものとして神の前にささげる。神は私達のその心を受け取られるのです。

 

次に、この世と調子を合わせる。とは、どういうことでしょうか。

世の風潮・評判に主導権を与えることです。人の評価に流されてしまう生き方です。これを避ける必要性は論語にもあって、「四十にして惑わず、五十にして天命を知る。」と有名な言葉です。でもどうしたら達成できるかは教えられていません。パウロはその方法を教えています。私たちが神のみこころを求め続けることで、聖霊様が私たちの心の目を開いてくださる。それが「心を新たにする。」ということです。こうすることで、神が喜ばれること、神が良いとされることを見極めることが出来るようになるのです。

 

具体的な内容は、12章、13章と進むうちに更に示されていきます。

( 小室 真 )

 

3-8節

ローマ書12章の1-2節でパウロはキリスト者の土台として、生きた礼拝と日々心を新しくされる新生を大切なこととして勧めていました。これらはすべてのキリスト者に共通することです。

 

今日の3節から8節は、キリスト者として生きていくための、一人一人への勧めになっています。これはパウロがいろいろな困難を乗り越えるたびに神の恵みを受けて教えられたことです。ですからこのことばは、キリストに従って生きていくための有益な知恵の言葉、神からの贈り物なのです。パウロの思いを感じながら読んでいきましょう。

 

3節では、二つのことを言っています。一つは、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけない。」もう一つは、「分け与えられた信仰のはかりに応じて慎み深く考えなさい。」というものです。

 

「思うべき限度を超えて思い上がってはいけない。」とは、自分に与えられている範囲を超えてはいけないということです。岡目八目と言われるように、他の働きをしている他人の粗が自分の目には見えているような気になります。実際に見えているかもしれません。だからと言って思い上がって指示したり手出しすることは避けなければなりません。自分に与えられている範囲を超えていないか見極める必要があります。また、神が働かれるべきところに、人が介入してはなりません。

 

次に、「分け与えられた信仰のはかりに応じて慎み深く考えなさい。」とは、どういうことでしょうか。賜物(たまもの)は神が一人一人に与えて下さったものです。神を信頼してそれを担っていく力が、「分け与えられた信仰のはかり」です。自分の生き方や自分の働き、賜物を前にして「自分にはとてもできない。」と自分をさげすんではいけません。自分を導かれる神の前に謹んで、軽はずみに自分をおとしめないようにと勧めています。

 

まとめると、パウロは私たちに、思い上がらず、自分をさげすまないで、自分自身を重んじるようにと勧めているのです。人との比較はいりません。

 

この勧めには理由がありました。たくさんいるキリスト者が、預言したり、奉仕したり、教えたり、勧めたり、寄付したり、指導したり、慈善をしたりと、いろいろな働きをしながら、それぞれの教会を形作っています。更にすべてのキリストの教会全体が、一つのキリストのからだを形作っています。キリスト者一人一人が自分自身を重んじながら、惜しみなく、熱心に、快く行っている姿や、キリストの教会全体の働きの中に、人々が一人のキリストを見いだすことになるからです。 

( 小室 真 )

 

9-16節

パウロが愛について語ります。

 

ローマ書12章冒頭から、キリスト者の生活の土台が語られてきました。生きた礼拝、日々心を新しくされること。思い上がらず、自分をさげすまず、自分自身を重んじるようにという勧め。一人一人に与えられた個性豊かな賜物が神から与えられていて、どれも大切だとパウロは話してきました。

 

そして9節から、愛の大切さについて語ります。

 

愛は、聖霊によって私たちの心に注がれている神の愛のことです。私たちが生まれつき持っている情愛とは違います。自分を迫害する人たちを祝福することを始めとして12~16節の愛の行為は、みことばを知らずに自発的にできる人はいません。もしどれか一つでもできている人がいるなら、どこかで誰かに教えを受けた人です。それは素晴らしいことです。

 

パウロは、この愛の行為の本質を教えています。愛の行為は、神が私たちを愛されていることを知ることから始まります。神の兄弟は神に等しく赦されて、互いに愛し合い支え合う者とされたのです。互いに蔑むことがあってはなりません。かえって互いに尊敬し合うことが必要なのです。

 

「愛には偽りがあってはなりません。」とパウロは言います。「偽りの愛」とは、偽善です。自分をよく見せようとするパフォーマンスのことです。偽りの愛を避ける方法として、「悪を憎み、善から離れないようにしなさい。」とパウロは言います。自分の心が何に支配されているか吟味しなさいというのです。

 

使徒の働き5章にアナニアとサッピラの献金事件が書かれています。周りの信徒が自分の資産を売り払って献金する姿を見て、自分たちも代金すべてを捧げますとペテロの足元に持ってきましたが、実は代金の一部だけでした。ペテロは見破って、「サタンに心を奪われ聖霊を欺いている。」と言いました。アナニアもサッピラもその声を聞いて息を引き取ったのでした。

 

もともと私たちの内には神の愛はありません。10節から16節に書かれた一つ一つの愛の働きに従えるとは限りません。出来ればやりたくないことが多いのではないでしょうか。

 

愛は律法や倫理や道徳のように、絶対に守らなければならないと、私たちを縛るものではありません。イエス様に愛されていることを思い、イエス様を愛する思いに導かれるとき、イエス様が望んでおられることに、自分からチャレンジするように私たちは促されます。アナニアもサッピラも無理をする必要は何もありませんでした。心のまま、「一部だけ献金します。」で良かったのです。「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」ということばが私たちを導いてくれます。

 

自分の力では出来ないけれど、聖霊の導きと、祈りの力によって、偽りのない愛の豊かな人生を求めていきたいと願います。

( 小室 真 )

 

17-21節 未完

パウロは敵対する人々へのかかわり方ついて教えています。イエス様の、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)という教えをかみ砕いて教えています。

 

 17、18節「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 

これには範囲が示されています。受ける悪について「自分に関すること」というように、自分で責任の取れる範囲に限っています。個人の間の争いについての戒めです。「できる限り」とは自分の我慢の限界という意味ではなくて、事柄の性質の限界です。他の人の問題や組織の問題、法令に反することや、命にかかわることは自分の範囲を超えていますから、そこは専門の方にお任せして、出来る範囲で対応するようにというのです。

 

悪に対して悪を返す。やられたらやり返す。そういう考えを捨てて、「すべての人が良いと思う」行動を心がけるようにと勧めています。すべての人とは、相手も、周りの人も、当然自分も含みます。第三者の目で客観的に自分の行動を見るということです。結果的にはそれは平和を保つための行動。争いに発展させない行動を心がけるようになります。自分が受けた悪に対して、争いに発展させないで解決を図れるか祈って考えることを勧めているのです。

 

19節で、「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。」と戒めています。これは申命記32章35節からの引用です。復讐は神がなさることで、人がすることではないと言うのです。詩篇37篇8節(口語訳)では「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」と書かれているように、怒りに身を焦がすことは、心を悩ませ、その人の心をむしばみ、体も害してしまいます。神はそれをご存じで、その労苦を避けるように、神ご自身が私たちに代わって怒りを受け持たれると言われるのです。

 

20節、相手が飢えたり渇いたりして弱くなったときは、相手を責める絶好機です。でもその機会を相手への憐みに用いるようにと聖書は命じています。「燃える炭火」とは当時の慣習か言い回しのようで、その根拠は明確ではありませんが、相手に悔い改めの機会を与えるものと解釈されています。かつては人と敵対し、神にも敵対していた私たちの身を振り返ると、今、自分が争っている相手にも、神は最善の対応をしてくださる、「燃える炭火」を生かして下さるのです。

( 小室 真 )